論理学

個人的に成る程など思った資料から。
ヘーゲルの弁証法という論理学がある。

自転車に関係のない話なので、見たくない人は次のボタンを押さなくてもいい。

悩みの種類として、仕事、人間関係、練習、子育てときりがないが、それぞれには因果関係は無い。しかし、根本となる考え方であったり、問題が解決されていく様には共通点がある。根本となる考え方の仕組みというのは普遍で、シチュエーションが変わったとしても、仕組みは共通している。

そのような一見曖昧な目に見ないものを考えとして確立したのが論理学らしい。ここで言う論理とは思考自体の法則であったり、思考のつながりや論証のつながりを指す。複数の異なる問題を解決するために、汎用的に使える手段としての思考の方法や組み立て方は不変のように思う。

とある、通信企業とLINEを運営するnaver社の提携が先日発表されたが、ソーシャルネットワークはTVの次ぐらいに使い方を間違うと、有効な凶器になる。SNSについてはもう触れないが、SNSの発展により、誰しもが不特定多数の顔も見えない人に向かって、自身の考えている事を容易に発信できる。

TVのコマーシャルを使うよりも、影響力のある人がBlogで紹介したほうが何倍ものコストパフォーマンスを持つ宣伝方法になる。SNSで表現が容易に誰しもが行えるようになる一方、意見と意見の衝突が起こる。何気ない発言や行動から火が付き、「炎上」という言葉で示されるように、ある個人や、企業が断罪される。

迂闊に物を言わなければいいが、場合によっては本来本人が「これが正しい」と思い、判断した内容に対して、他の別の意見を持つ第三者が「こちらの方が正しい」と正しさの衝突を生む場合がある。迂闊な言葉では、明らかな間違いに対して、相手が不利な状況に更に外野が正義の鉄槌を下すので、いくらか卑怯だと思うが、「正しいと思っている」 VS 「正しいと思っている」の衝突はどのように収束していくのか。

対立を克服する為の考え方としてはじめに述べた弁証法という方法がある。「正」に対する、「反」がある状態が有った場合、「正」と「反」とはそもそも対立するものである。この場合の反は自分自身から見たら反であるが、相手から見たら相手の「正」は「反」である。この相反するものは、一緒にはなれない。主体と客体があるように、区別されるものなので主客分離することになる。

という、相容れない状況をまず理解するところから始まる。弁証法とは一般的にはヘーゲルの弁証法を指すが、「正・反・合」で表される。「正」と「反」が「合」ということになると、正と反とが、合わさるという事になる。主客合一の状態になり、正と反との対立が克服された状態を指している。もはや、「合」になれば、正と反とは対立していない状態になる。

「正」と「反」とは、合体したのか、仲間になったのか、区別できないような状態になるわけだが、弁証法でいう所の「合」の状態は「正」と「反」との対立が「克服」された状態で今度は「合」が、新しい「正」になる。これらを「曖昧」と捉えてしまう人の場合は、「正」と「反」自体の理解(自分の思考と相手が理解できていない状態)であるため、そもそも同じ土俵に上がれていない可能性がある。

そもそも正しいことに対して問題があってはいけない。問題自体を抱えている事は正しいとはいえない。しかしいづれこの「合」の状態も問題が出てくれば、また合は正と反との対立のフェーズに移行する。私が考えるに人間の思考というのはその繰り返しで、何回かそのサイクルを繰り返すと、それで気が済むんだと思う。

重要なのは、「合」の状態で以前の状態よりも必ず高みに進むことだ。

一つ、ヘーゲルの弁証法が人間関係のみならず、身近な通信技術でも同様の考えからできた例を紹介する。
「正・反・合」という流れを組む仕組みから高みに向かう好例。

正:固定電話 (でも欠点として、外では通話する事ができない)
反:公衆電話 (外で通話できるが、常に身近にはない(固定電話))
合:携帯電話 (欠点を補い高みに進んだ結果)

お互いが、「正」と「反」を持っている間はその場で停滞し「合」など生まれるはずはない。相手のここがどうだ、とかここが嫌だとか、ネガキャンするよりも、互いの欠点を理解し合い、相乗効果を図る方がよほど建設的であるように私は思う。

読んでいて驚いたのは、この弁証法の結論は、儒教の「中庸」と全く同意だという事だ。恐らく本質とは、国や、人種が違っても「合」であり「中庸」に収束していくのだろう。