「日本語」を伝える為に気をつけていること

Finding Dinner in the Alleys of Kyoto

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母国語が日本語でない人に日本語を伝える

韓国に対する日本のイメージは悪い。日本の韓国のイメージも悪い、というのが私の見識であった。しかし、実際に多国籍の組織の中で仕事をするとまた違った見え方をするものである。後輩や仕事仲間が多国籍になり、様々な国の人と接するとそれらの考えは非常に狭い”偏向した考え”だと気づく。

ごくまれに、フェイスブック上でも他国を叩く投稿が見られる(特に隣国の事だ)。私は自分の仕事仲間としてそれら”叩かれている国”の人と接することがある。その際、偏向した思考を私が持っていたということに気づかされる。

今のIT業界は、インド、中国、韓国と多国籍の人が入り混じるようになった。”国間の問題”は仕事をする上でなるべく影響を及ぼさないよう神経質になる話題である。だから意図的にお互いが話題として取り上げないのだ。

それらが互いに神経質になる話題であるから、あえて話さない賢い選択であると認識している。ネットの世界は偏った国間の思想と、何かを悪者にする傾向があるのは確かだ。何も考えていない人たちは、それがあたかも全て正しい意見として”偏った考え”を受けいれる。

日本語を正しく伝えるということ

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多国籍で構成される組織において、日本人だけで構成される”島国根性”の古い文化の思想は今後足かせとなると思い知らされた。その中でひとつ”面白い”と思える事がある。

それは母国語が日本語でない方へ日本語での説明手法だ。自分自身の作文技術と、日本語を正しく伝えられていない事実に気づく。いかに母国語が日本語の集まりの中では”意味を汲み取って”意思疎通していた、のかがわかる。

私はブログの文章の体裁をこだわっているが、それらを続けるうちに得られたものがある。いかに指示語を使わず具体的に表現できるかということだ。それらをこだわるのには理由がある。当ブログはありがたいことに1日1.1万から1.5万PVのアクセスをしていただいている。

自分の備忘録が誰かの役に立つとはありがたいことである。しかし、それらを”読む”ということは、誰かの貴重な時間を消費しているということであり、人の時間を使ってもらっているということだ。

ということは何かしら読者は時間を使ってアクセスしてきているわけであり、幼稚な文章と適当な記事を用意して待ち構えていては無駄なアクセスになる。そんな記事は到底かけまい。その中で、『正しく日本語をかけているか』と自問自答してみる。

私は根っからの理系だが、日本語の作文技術を1から勉強してみることにした。

日本語で作文できているか

私は文章とはメカニカルに構成しているものだと考えている。逆にメカニカルからはずれると”理解し難い文章”になる。基本的な話だが文章を書くときに、どこに点を打って”良い”のか明確にわからない。

そんな、”基本”から勉強することにした。

趣味でブログを書くにしろ、仕事で報告書を書くにしろ一生ついて回るのが「日本語を書く」ということである。しかし、当たり前に書いている日本語の作文について技術的な「作文の作法」は学校で教わらなかった。というよりそんな作法など教わる機会がないのが現状ではないか。

「作文」と似ている物書きとして、「プログラム」や「コーディング」がある。これらはある秩序とルールを持って構成され、集合体が一つのアプリやブログ本体として機能する。日本語で作文して出来上がったものが「本」であると言えるし、プログラムやコードを書いて出来上がったものが「アプリ」といえる。

ここで一つ気づいた事があったので記す。書き方を教えてくれる書籍や情報源が後者(プログラム)あるのに対し、作文技術(日本語を用いた場合)についてはそれら類似するものはあまりない。

日本語で文章を書くなど当たり前と思っていたが、当たり前に誰もが日本語を書ける(書けているつもり)というのは思い込みである。論理的・技術的に再確認し、メカニカルに作文技術の方法は書籍「日本語の作文技術」が非常に役立った。

日本語の作文技術

文章は相手を説得することと似ている。わかりやすく納得させることは、相手を説得する為のプロセスと置き換えられる。わかりにくい説明は理解されないし、相手が納得することはない。

自身が書いた文章がいつも心配でならない。書いた文章は読みやすく、そして伝わりやすい文章の構成されているかとても不安だ。先にも触れた文章のどこに点を「打たなくてはならないか」について考えてみたい。

点を打つ位置で異なる意味

“点”を打つ位置についてメカニカルに構造的に説明している本書(日本語の作文技術)から、以下の例をあげよう。

  • 渡辺刑事は血まみれになって逃げ出した賊を追いかけた。
  • 渡辺刑事は血まみれになって、逃げ出した賊を追いかけた。
  • 渡辺刑事は、血まみれになって逃げ出した賊を追いかけた。

それぞれ、点を「打つ」位置で意味が全く異なることがわかる。本書ではさらにメカニカルかつ論理的に文章を分解し、これでもかと説明をしている。例えばブログでレース展開を書くとしよう。

  • 追走集団はバラバラになって逃げた選手を追いかけた。
  • 追走集団はバラバラになって、逃げた選手を追いかけた。
  • 追走集団は、バラバラになって逃げた選手を追いかけた。

それぞれ点を打つ位置で、言いたい意味が異なることがわかる。2は追走集団の意思が統一せず、集団からさらに抜け出した展開が想像できる。3は追走集団の意思統一がされているが、逃げた選手たちの意思統一は図られていない。

このように言いたい展開がどちらなのかは、書き手にしかわからない。しかし「読みての受け取り方」は文章をそのまま受け取る。点は日本語を書く際に、非常に重要な部品であることがわかる。

日本語の作文はできて当たり前ではない

我々はこれら日本語を正しく認識し記述出来ているのだろうか。蔓延する意味不明な文章で構成されるブログの中で秀逸な文章を書くにはどうしたらいいのか。それらを自問自答するうちに、「母国語が日本語以外の人」に教えるという事がリンクする。

ようは、”補足なしで理解できる”文章を本来書かなくてはならない。口頭で補足するということは”説明が足りない”ということにほかならない。多国籍の人ににわかりやすい日本語と、わかりやすい「日本語の作文」をすることは結果として”わかりやすい説明”につながると改めて気付かされるのだ。

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本多 勝一
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