当事者でありながら、第三者視点を保つ難しさ

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東京へ2日ほど行ってきた。大阪から新幹線であっという間に着く。この日は天気が良く静岡を過ぎる頃にうっすらと雪が積もった富士山が通り過ぎていく。東京駅に着くとクリスマスムード一色だった。日本という国は多国籍の文化を(少し間違えて)取り入れているといつも思えてならない。

1日目の用事を終え2日目は少し観光をする。浅草なんてあまり行く機会がなかったが、やはり観光名所はそれなりの価値がある。浅草の雷門の大きな提灯はパナソニックの松下幸之助さんが寄贈したものだ。なかなか寄贈できるものではないが、普通の一般人が寄贈したら飾ってもらえなかったに違いない、と余計なことを考える。

年末になり、私は幾つかの決断をした。どうでもいい決断、人生を左右する決断、決断の種類はそれぞれだけどやはり「迷う」というプロセスは必ず通過する。その時にいつも心がけているのは当事者でありつつ、第三者目線をいかに持てるかという事だ。多くの人と出会い、関わって行くと、いかに思考に癖があるのかがわかってくる。

やはり皆自分が可愛い。脳には元々自己保存という癖がある。「自己保存」は「生きる為に自分を守る」という本能だ。例えばこんな話がある。問題を起こした企業が会見で弁解に終始する。不祥事を隠蔽しようと、嘘に嘘を塗り重ね結果更なる悪を招き入れる。企業という大きなくくりではないにしろ、個人レベルでも当然あり得る。

ただ、このような時に本能のままに突き進むなら、明らかにおかしい事実をまことしやかに延々と弁明し続ける。聞いている方はうんざりするだろうし話には一貫性がない。ただ、話している本人はそれが「確からしい事実」として話の筋道を何かしらの補正を加えながら通そうとする。

このような時に意見の食い違いが出るのは「当事者の自己保存」と「第三者の客観的視点」が折衝しているからだ。当事者には自己保存のバイアスが働いているが、第三者は客観的に内容の一貫性や統一性を見ている。この一貫性を保つ考え方も一つのバイアスという見方もできるが、どちらかといえば脳の本能だ。

結果的に見れば、これらの考え方の癖は「当事者」であるか「第三者」であるかによって、どちらかの癖が強く出る傾向にあったりする。ただ、我々が話を円滑に進める上で備えておきたい事は、自己保存の癖を理解して自分の今の考え方を客観的にとらえる事だ。

ただ、難しいのは仮に「当事者」でありながら「第三者目線」で見ようと暗示をかけるかのように思って見ても、そこには根強く「自己保存に影響された第三者目線」である場合も十分に考えられる。ようするに当人が第三者目線で考えていても、自分に有利で都合の良い考え方をしている。

この時どのようにしたら本質的な思考の解を出せるのだろうか。

方法がないわけではない。一つは第三者の思考のサンプルを複数集める事だ。例えばある事例に対し、自分なりの考えと答えを出したとする。その点についてバイアスが働いているか否か判断するために、第三者に同条件下ならどう判断するか考えを聞く。

人によっては考えに沿った嬉しい答えを出してくれる人もいるだろうし、そうでない人もいる。ただ、白黒明確に答えを出してくれないものの、ある一定の傾向は見えてくるだろう。その数が多ければ多いほど「第三者視点」は精度を増していく。

やはり第三者視点を当事者が持つ事は非常に難しい。ならば本当の「第三者」の意見を吸い上げ精査し自分の意見とすり合わせる事もできよう。次第に「考え方が間違っていた」や「間違っていなかった」という判断もできるようになってくる。それらの繰り返しが、当事者でありながら第三者目線を持つ訓練になる。

しかしこのように第三者の目線を複数集めたとしても、周りにイエスマンしか居ない企業やグループでは正しい答えを導き出す事が難しい。サンプリングする思考がそもそも歪んでいるからだ。例えば、測定器でも一つの測定結果を出す際に複数サンプルを行う。一人だけ正確に「1Wです。」と言ってもあとの5人が「100Wだろ。」と言えば501÷6で83.5Wになる。

正しい答えは1Wなのに答えは程遠い83.5Wだ。思考のサンプルを集める時も同じ事をしてはならない。あえて自分とは考え方の違う、むしろあなたを厳しく敵意に満ちている人にお伺いを立ててもいいかもしれない。「この人なら自分に有利な事を言ってくれそうだ」という自己保存が顕著に働く振る舞いをしてはならない。

我々が常に欲しいのは確かな判断と事実であるが、必ずしも正しい判断を行えるわけではない。ただ、自分自身の考え方はいつも誰か(第三者)に見られ、評価されている。その評価の積み重ねがその人の印象を作り出し、人間としての付き合い方や、接し方まで変えてくる。

残念な事に、自分の事であればあるほど間違った事実に突き進むその事実に気づく事はできない。そこに気づくのが40歳なのか、50歳、はたまたその生涯を終えるまで訪れないかは定かではない。少なくともこれら当事者でありながら、自分を客観的に見る為の修行はこれからも続いていく事だろう。

なお、本記事に関する思考の話は以下「脳に悪い7つの習慣 (幻冬舎新書 は 5-1)」に詳しく記載されている。面白いので読んでみてください。

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林 成之
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