知らない、と言えること。

人と会話するときや、物事を受け取るとき、調べものをするとき、またはブログを見る時でもいい。「知ってる」という変なプライドは捨てている。うんうんそうだよねと、中途半端な理解で物事を理解し(たつもり)始めると次第に物事を深く考えなくなるばかりか、いつの間にか自分が何でも理解しているつもりになる。

「知ってる」、「アタリマエのことだ」と考え始めるとそこで自分の成長はとたんに止まる。意外なことかもしれないが、無知ということを理解し始めると途端に楽になる。人に教えてもらう時もそうだ。「私は知ってる(つもり)ですが聞きたい」よりも「知らないので教えてほしい」という方がより相手は親身になってくれる。

ただし経験してわかるのは、「しらないので教えてクレ」とは声に出して言わないほうが良い場合が多い。言葉で言わなくともここがこんな感じでわからない、ここはどんな意味なのかと「無知」を「疑問」に変換する方法を取るほうがうまく行く。

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疑問はどこから生まれるか

「疑問」というのは自分が深く考えないと生まれない。例えば講義や、プレゼン、説明が終わってから何も質問が浮かばないのは何も自分で考えていないか、もしくは説明者が何を言っているのかわからない時だ。ただし、説明者が支離滅裂な事を言ったとしても「〜の意味がよく飲み込めませんでした」とやんわりと質問できよう。

ここで履き違えていけないのは、よく就職活動で見られる(積極的な自分をアピールするために)「質問する」という行為をゴールにすることではない。自身の内在的な疑問から湧き上がる「問」を相手に伝えるのだ。この問の根底には、自分自身の無知を素直に受け入れる、という前提がある。そのうえで、疑問を問うのだ。

疑問ということばは、疑うと書く。疑うということは自分自身の中に確からしい(正しいとされる)確証がないからだ。それは、知らないことが原因かもしれないし、偏ったバイアスに歪められている可能性だってある。それら内在的に存在する己の未熟さを理解すれば、心の底から知らないと思えてくる。

見方を変えればスポーツも一緒だ。「できている」「本気出せばできる」と勘違いしているうちはいつまでたっても上達なんてしない。知らない、できないという事を自覚することは恥ずべきことではない。それらは、上達するために必ず必要な第一歩だ。

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