できるだけ抵抗が小さく、流れ落ちないグリスをずっと探していた。
この二つの要求は、潤滑において矛盾している。抵抗を減らしたければ基油を薄くすればよい。しかし薄い基油は重力と遠心力に負けて摺動面から逃げていく。
逃げないように増ちょう剤で固めれば、今度はその増ちょう剤自身がベアリングの中で押し分けられる抵抗になる。軽さと留まること。速さと守ること。グリス選びとは、この二律背反のどこに線を引くかを決める作業だ。
SILCA Synergetic Race Greaseは、低粘度の超合成基油、SpeedChipから応用された合成ワックス技術、ナノスケールの二硫化タングステン、WS2を組み合わせた低摩擦グリスだ。
グリスという製品カテゴリーの中で、摩擦低減そのものを主目的として設計された数少ない存在である。
SILCAはこの製品を、オイル系潤滑剤の低い粘性抵抗と、一般的なファクトリーグリスが持つ耐圧性、耐摩耗性を両立させるものと説明している。
用途はベアリング、ブッシュ、サスペンションピボット、ねじ部、圧入部と幅広い。わたしが長く探していた条件と、ほとんど重なる。
実際に使ってみて、もっとも変化を体感できたのはクランクシャフト、つまりボトムブラケット周辺だった。ハブでも差はあるが、脚で直接回す部位のほうが指先と脚の両方で違いを拾いやすい。
この体感の中身と、それを支える技術、そして体感と数値の間にある距離について、順に書いていく。
抵抗が小さいグリス
グリスの抵抗は一つの物理的な量ではない。少なくとも三つの異なる発生源があり、Synergetic Race Greaseはそれぞれに対して別の手段を割り当てている。
粘性抵抗の低減
ベアリング内部では、ボールの転動体とレースの軌道面の間に形成された油膜がせん断されることで粘性抵抗が発生する。油膜内部で液体の層がずれ合う摩擦、これが粘性抵抗だ。基油粘度が高いほど、一定条件下では油膜内部のせん断抵抗が大きくなりやすい。
Synergetic Race Greaseは、SILCA自身が低粘度グリスと説明している。基油粘度を低く設定することで、転動接触部における粘性損失を小さくし、ベアリングの回転抵抗を抑える方向の設計になっている。
攪拌抵抗の低減
ベアリングの転動体や保持器がグリスを押し分けるときには、攪拌抵抗が発生する。ボールが前方のグリスを押し退け、後方に流れ込ませる。この往復運動がエネルギーを消費している。
高粘度のグリスや封入量が多い状態では、転動体と保持器がグリスを移動させるために必要な力が増え、回転トルクと温度が上昇する。
Synergetic Race Greaseは、低粘度基油と低せん断性を狙った合成ワックス構造により、一般的な高粘度ファクトリーグリスより攪拌抵抗を減らすことを狙っている。
手でクランクを回したときの初動の軽さは、おもにこの攪拌抵抗の差が指に伝わっているものだ。
WS2による境界摩擦の低減
基油粘度を低くすると、低速、高荷重、停止と再始動などの条件では油膜が薄くなり、金属表面の微細な凸部同士が接触しやすくなる。これが境界潤滑と呼ばれる状態だ。
Synergetic Race Greaseでは、WS2が境界潤滑剤として働き、油膜が十分に形成されない条件でも摩擦と摩耗を抑える。これにより、基油を低粘度化しながら、表面保護性能を維持することを狙っている。
低粘度基油とWS2は、単に併用されているのではなく、一方が生む弱点を他方が埋める関係にある。
金属表面の凹凸を埋める
ベアリングの軌道面や転動体は精密に研磨されているが、顕微鏡レベルでは微細な溝や凹凸が残っている。鏡のように見える面も、ナノメートルの尺度では「山脈」である。
油膜が薄くなると、表面の凸部同士が局所的に接触し、凝着摩擦、塑性変形、微小摩耗が発生する。
微細なWS2粒子は、金属表面の溝や凹部に入り込み、実効的な表面粗さを小さくする方向に作用する。粗い表面をWS2の粒子で埋め、鋼球が転がる面を実質的に滑らかにする。
摩擦面に残留したWS2は、局所的に基油が不足した場合でも潤滑作用を維持する可能性がある。粗い鋼表面では、WS2ナノ粒子が鋼の溝に捕捉され、粒子が不足した場合でも接触部の潤滑を維持できることが示されている。
50%摩擦低減、最大90%摩耗低減
SILCAは、Synergetic Race Greaseについて、最大50%の摩擦低減、最大90%の摩耗低減、極圧安定性、過度な締め付けなしで一貫した締結力を得られること、界面の完全性を損なう染料や添加剤を含まないことを掲げている。
SILCAは発表時に、他社のレース用グリスが抱える寿命面の妥協なしに、ベアリングにおけるトップクラスの摩擦低減を提供すると述べている。この発言は重要だ。
SILCA自身が、レース用グリスの弱点を”寿命”と認識している。ようはいくら抵抗が低くても、耐久性が無く長続きしないのだ。それを克服することをこの製品の主張に含めている。
公開されていない測定項目
Synergetic Race Greaseについては、回転トルク、消費電力、絶対損失W、摩擦係数、温度上昇、耐久後の抵抗値は公開されていない。
最大50%の摩擦低減と最大90%の摩耗低減についても、比較対象となるグリス、試験装置、荷重、速度、温度、試験時間、グリス量、試料数、測定誤差、標準偏差は確認できていない。
摩擦と摩耗の低減率を算出する際にどの製品と比較したのかSILCAが明示していない。
そのため、例えば一般的なボトムブラケットで1Wの損失が発生している場合に、Synergetic Race Greaseへ変更すれば0.5Wになるという意味ではないだろう。
摩擦係数が半分になることと、システム全体の損失が半分になることは、まったく別の話である。この区別を曖昧にしたまま数字だけが流通するのが、自転車業界の悪癖だとわたしは思っている。
インプレッション
グリス以外の抵抗要因
完成状態のベアリングユニットでは、ボールとレースの摩擦、グリスの粘性抵抗と攪拌抵抗、シールの摺動抵抗、ベアリング予圧、芯ずれ、ハウジングへの圧入による外輪変形、アクスル締結による軸方向荷重などが抵抗に影響する。
グリスはこの一覧の中の一項目にすぎない。
セラミックベアリング自体の抵抗は全体の3~5%ほどしかない。これはかつて別のレポートで検証した数字だが、グリスについても同じ構造で考える必要がある。

特に接触シール付きベアリングでは、低回転域でシール抵抗が全体の大きな割合を占めることがある。その場合、グリスの粘性抵抗を大幅に下げても、ベアリングユニット全体の損失低減率は限定的になる可能性がある。
手でホイールを回して差を感じるとき、その差の何割がグリスで何割がシールなのかを、指は区別できない。
グリス封入量の影響
ベアリングの回転抵抗は、グリスの種類だけでなく封入量によって大きく変化する。封入量が多すぎると、転動体と保持器が余剰グリスを押し分ける抵抗が増え、回転トルクと温度が上昇する。
ベアリングメーカーの一般的な指針では、内部空間の20~40%程度の充填が高速用途の目安とされる。
新しくグリスを封入した直後は抵抗が大きく、運転を続けると余剰グリスが内部で再分配され、抵抗と温度が低下する。異なるグリスを比較する場合は、封入重量、封入位置、慣らし時間、荷重、回転数、温度を統一する必要がある。
グリスを替えて軽くなったと感じたとき、それは単に封入量が減ったから、という可能性を常に疑わなければならない。
実際に使用した印象
わたしはボトムブラケットとハブのベアリングに封入して使用した。作業時にまず気づくのは、塗布のしやすさである。低粘度でありながら垂れず、ボール周辺に均一に広げやすい。
従来の高粘度ファクトリーグリスでは、ボールの間に押し込んだグリスが塊として残り、それが慣らし運転で抵抗となるが、Synergetic Race Greaseは広げた瞬間に薄く均一な膜になる。
組み付け後、クランクを手で回したときの初動は明確に軽い。回し始めの「引っかかり」がなく、慣性で回る時間が長い。これは攪拌抵抗の差が指に伝わるものだと解釈している。
ペダリング中の脚の感覚として、抵抗の低減をワット単位で感じ取れるとは言わない。人間の脚に1Wの分解能はない。しかし、踏み込みの立ち上がりで感じるわずかな粘りが消えた感覚は、レース前の心理的な軽さとしては確実に作用する。
数百キロ走行後にBBを開けて確認したところ、グリスは封入時とほぼ同じ位置に留まっていた。「流れ落ちない」という当初の要求に対しては、現時点で満足している。
ただしこれは晴天中心の使用条件での印象であり、雨天走行や高圧洗浄後の挙動は別途の検証が必要になる。
期待できる効果
Synergetic Race Greaseは、ハブ、ボトムブラケット、ペダルなど、回転抵抗を重視する用途に適している可能性が高い。低粘度基油によって攪拌抵抗を抑え、WS2によって境界潤滑性能を補えるためである。
一方、日常使用や悪天候条件では、防水性、防錆性、基油の流出性、シール材との適合性、メンテナンス間隔も重要になる。
SILCAは耐水試験、防錆試験、離油試験、使用可能温度範囲の詳細を公開していないため、長期耐久性については実使用データが必要である。レース用の道具は、レース以外の時間をどう過ごすかで真価が決まる。
SpeedChip
Synergetic Race Greaseを理解するには、その技術の出発点であるSpeedChipを避けて通れない。合成ワックスとWS2という組み合わせは、まずチェーン用ワックスの添加剤として実戦投入され、その後グリスへ応用された。
SpeedChipは、SILCA Secret Chain Blend Hot Melt Waxに溶かして使用する、レース向けのチェーンワックス添加剤である。単独でチェーンへ塗布する製品ではなく、既存のホットメルトワックスの配合を低摩擦方向へ変更するための固形添加剤として設計されている。
SILCAの説明によれば、Secret Chain Blendは4種類のワックスの混合で、性能、耐汚染性、持続性のバランスを狙った配合だ。
プロのグラベル選手、ワールドツアーチーム、オリンピックメダリストとSILCAが仕事をするなかで、特定のイベント向けにワックスをカスタム配合してほしいという要望が繰り返し寄せられたという。
無数のカスタムブレンドを作るのではなく、2024年初頭から2種類の添加剤キットを選手やチームに出荷してテストを始めたのが、SpeedChipとEnduranceChipの起点だ。
SpeedChipは、タイムトライアル、トライアスロン、ロードレース、ワンデーレースなど、単回施工あたりの耐久距離よりも、対象イベント中の最高効率を優先する用途を想定している。
Vismaがツール・ド・フランスのタイムトライアルで使用したと紹介されている。
SILCAはSpeedChipとは別に、耐久距離を延ばすためのEnduranceChipを用意している。SpeedChipが効率重視であるのに対し、EnduranceChipは再ワックスまでの走行距離を重視した添加剤である。
SpeedChip技術をグリスへ応用する意味
一般的なグリスでは、リチウム石けん、カルシウム系増ちょう剤、アルミニウム複合石けん、ポリウレアなどが三次元構造を作り、その内部に基油を保持する。
Synergetic Race Greaseは、SpeedChip由来の合成ワックス技術によって基油を保持すると説明されている。この構成によって、一般的な増ちょう剤より内部せん断抵抗を小さくし、低粘度基油の回転性能を維持することを狙っている可能性がある。
ただし、Race Greaseに使用されるワックスの化学組成、含有率、結晶構造、SpeedChipとの配合上の違いは公開されていない。SpeedChipと完全に同一のワックスを使用しているのか、グリス用に分子量や濃度を変更しているのかは判断できなかった。
まとめ:抵抗を減らし、持続する性能を。
Synergetic Race Greaseは、一般的な高粘度ファクトリーグリスより低い回転抵抗を狙いつつ、通常の低粘度オイルより高い保持性と耐摩耗性を確保しようとした製品だ。
ロードバイク用途では、単に新品時の抵抗を下げるだけでなく、WS2によってベアリング表面の摩耗を抑え、低抵抗な状態を長期間維持するグリスとして評価するのが妥当だろう。
わたしが実際に使って感じた初動の軽さと、数百キロ後も封入位置に留まっていた保持性は、この設計思想と矛盾しない。
ただし、製品そのものの回転トルク、消費電力、耐久後の抵抗を示すデータが不足しているため、他社製グリスに対する絶対的な優位性や、削減できるワット数を定量的に判断することはできない。
体感はあくまでも体感であり、数値ではないからだ。
SILCA Synergetic Race Greaseの低抵抗性を支える中心的な要素は、Type-Vという名称そのものではなく、低粘度基油、合成ワックスによる基油保持構造、ナノスケールWS2による境界潤滑の組み合わせにある。
SpeedChipは、この合成ワックスとWS2を利用した低摩擦技術をチェーン用ワックスへ適用した製品であり、Synergetic Race Greaseは同じ技術思想をベアリングや摺動部向けのグリスへ展開した製品と位置付けられる。
抵抗が小さく、流れ落ちないグリス。わたしが探していたものは、少なくとも設計思想の段階では、ここにある。
それが数値として何ワットに相当するのかは、まだ示されていない。だが、道具を選ぶという行為は、いつも証明より少し先を歩く。証明が追いつくのを待つ間、わたしはこのグリスをBBに入れたまま走り続けることにした。










