「走りに勇気をもらいました」「走りに感動しました」という感情がある。ただ、これら人間が感じる感情は単なるリザルトの順位とは反比例するように思えてならない。我々が時折感じる「価値のある走り」とはなんだろうか。
先日のシクロクロスのレースでC1の先輩選手の走りに感動した。優勝ではないのだが私の中で「価値ある走り」として焼き付いた。今までスポーツにおいて「勇気をもらいました」「影響を受けました」という言葉はにわかに信じられなかった。
ただ、間違いなくそのあとC2を走った私を含めた仲間はその「価値ある走り」に影響を受けたと言ってもおかしくない。「価値ある走り」とは一体なんなのだろうか。そして、なぜ人を魅了するのだろうか。
勝ち方の種類
自転車のレースは「一位以外は全員負け」それらは自分自身も理解しており否定もしない。むしろレースという殺伐とした世界において至極当然だといえる。勝者のみが称えられる世界に異論はない。ただ、一握りの勝者のみが称えられる一方で「価値ある走り」は人を納得させ、賞賛と人に影響を与える。
例えばクリテリウムで終始足を温存し(むしろ消極的な)バックストレートから貯めていた脚を爆発させて勝利というパターンも一つの勝ち方として正攻法と言える。勝ち方として頭を使うレースで適切な判断と戦略で勝つという価値に変わりはない。
むしろ、同じように「最後だけ行ったろ」と思っているであろう集団の中で勝ったのだから賞賛されるべき勝利である。ただ、それら私の中でよく見てきた光景と今回のシクロクロスC1でみた走りの影響を受けた物とは対局にあるように思えてならない。
正直なところ、最後ちょい刺しで勝っても人に多くは影響を及ぼさない傾向にあるのではないか。なぜだろう。やはり勝ち方としては逃げ切って勝つことや、積極的にレースを展開して最後競り勝ったという方が称えられる傾向にあるように思う。
理想論だと言われればそれまでだが、人は他人に対して理想を求め自分自身に対しては「どんな手を使っても勝ちゃいい」という現実の報酬を求める。
これらの「勝ち方の種類」を注意深く見て行くと見る側のバイアスが多く含まれていることがわかる。いわば感情移入だ。今回の例に限らず、良い走りだったと思わせてくれる場合始めはそこまで何も思わなくとも、次第に熱が入ってきてしまう傾向にある。
評価の指標
人間は知らぬうちに、人の評価を勝手につける。この人はあのレベル、あの人はこの程度といったように。例えば私が上位のレースで6位入賞だとしてもプロ選手が6位の場合、見る側の受ける印象が異なる。前者は称えられる傾向にあり、後者は残念だったと労わられるかもしれない。
とすると、順位が関係ないところで感じる「価値ある走り」とは「第三者が決めた指標」と言えるのではないか。よって人それぞれの中に存在しててもおかしくない。そして、それらはその人ができる最大限のことよりも、少し上のことを達成した時に得られるようにみえる。
だとすると、今回自分が出した結果で頑張ったと言われているようでは「まだそこまでのレベル」という事だ。人に影響を与えるような走りはまだまだ私にはできないが、結果を持ってして少しつづつ見ている側の指標を変えていきたい。
今は、自分自身が欲しい順位という結果とは対局にある評価だが、それらは突き詰めていけば必ず拮抗してくるのだろう。着に絡んで当たり前と思われるようなレベルにまで自己研鑽し、決し踏みやめない力を身につけていきたい。
自分は毎レース価値ある走りを出来ているのだろうか。シーズンを目の前にして今一度見つめ直す機会かもしれない。
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