2024年のツール・ド・フランス、その山岳ステージを制圧するために、現世界王者レムコ・エヴェネプールが求めた究極の決戦兵器、それがS-Works Torch Remcoだ。
プロプロトン最軽量となる片足148.2g(サイズ41)という驚異的な数値を実現するため、「本質だけを残し、無駄を削ぎ落とす」という哲学のもと、アッパーからアウトソールに至るまで全てを再設計した。
この一足は単なる軽量モデルではない。長年業界の常識であった「剛性は高ければ高いほど良い」というドグマに疑問を呈し、「適正剛性」という新たな概念を提示する、サイクリングシューズの未来を占う試金石だ。
王者の要求が生んだ究極の山岳兵器
S-Works Torch Remcoの誕生は、2023年10月にレムコ・エヴェネプール選手がスペシャライズドの開発チームに送った一つの要請から始まった。それは、ツール・ド・フランスの長く険しい山岳ステージでアドバンテージを得るための、極限まで軽量化されたシューズの開発であった。
この明確かつ困難な要求に対し、スペシャライズドは驚異的なスピードで応えた。要請からわずか8ヶ月後には、レース投入可能な最終プロトタイプがレムコの足元に届けられたのである。
この迅速な開発プロセスは、同社の「Made in Racing」という哲学を体現している。これは、トップアスリートの具体的な要求に応え、彼らと共に製品を創り上げるという開発思想だ。
レムコ自身が「開発チームに依頼した8ヶ月後に、そのシューズでレースに出られるのはスペシャライズドだけだ」と語るように、アスリートと開発チームの密接な連携が、この異例の短期間での製品化を可能にした。
このシューズは、既存のS-Works Torchの後継モデルではなく、特定の目的のために性能を極限まで追求した「ホモロゲーションモデル」と呼ぶべき存在である。
モータースポーツで競技用車両のベースモデルを指すこの言葉が示すように、S-Works Torch Remcoは、勝利という唯一の目的のために、快適性や耐久性の一部を犠牲にしてでも軽量化を最優先した、極めて特殊な一足なのだ。
148.2gに凝縮されたエンジニアリングの粋
S-Works Torch Remcoの148.2gという重量は、単なる素材置換によるものではない。シューズの構造、素材選定、そして設計思想そのものを見直すことで達成された、エンジニアリングの結晶である。ここでは、その驚異的な軽さを実現した技術的要素を詳細に分析する。
構造と素材:徹底的な軽量化へのアプローチ
軽量化の大部分は、アッパーとクロージャーシステムの抜本的な見直しによって達成された。
従来の多層構造や補強材を徹底的に排除し、メッシュと単層構造のTPU(熱可塑性ポリウレタン)からなるミニマルなアッパーを採用。これにより、標準のS-Works Torchと比較して39.81gもの重量を削減している。
その感触は「非常に薄いグローブ」や「スイミングシューズ」のようだと評されるほど、足との一体感を追求している。
クロージャーシステムもまた、軽量化の対象となった。一般的なハイエンドシューズが採用するデュアルBOAダイアルではなく、シングルBOA Li2ダイアルと中足部の幅広ストラップ、そして前足部のシンプルなベルクロストラップという構成を採用した。
これにより、さらに11.29gの軽量化を実現している。プロトタイプで使用されたオレンジ色のストラップは、当初は工場に偶然あった生地を使ったに過ぎなかったが、開発努力への敬意として製品版にも採用された逸話を持つ。
かかと部分のヒールカウンターも、従来の硬質なものから、より小型で薄いナイロン射出成形へと変更された。
これにより、サポート性を維持しつつ重量を削減。その感触は従来のロードシューズの硬いカップとは異なり、柔軟でマリアブル(可鍛性がある)なランニングシューズのそれに近いとされている。
これらの徹底した軽量化策を積み重ねることで、標準のS-Works Torch(サイズ41)から合計で65.1gという大幅な重量削減を達成している。
アウトソール:「適正剛性」という新概念
S-Works Torch Remcoが最も革新的なのは、アウトソールの設計思想にある。
スペシャライズドのヒューマンパフォーマンスチームを率いるトッド・カーヴァーは、「市場にある多くのサイクリングシューズは不必要に剛性が高く、パフォーマンスを向上させることなく重量を増加させている」と断言する。
この主張は、6年間にわたる研究と3本の学術論文に裏打ちされており、パワー伝達の損失が始まる剛性の閾値を特定した成果に基づいている。
この「適正剛性」という新概念に基づき、アウトソールのカーボンプレートは従来モデルよりも小型化された。そして、ナイロン射出成形のトウキャップやヒールカウンター、プレート周辺の強化構造と統合することで、必要な剛性を確保しつつ14gの軽量化を達成した。
スペシャライズドはこの具体的な剛性目標値を「企業秘密」としているが、レムコ・エヴェネプールよりもFTPが低いライダーや、2000W未満の最大出力を持つライダーにとっては「十分すぎる剛性」であると説明している。
このアプローチは、業界で長年続いてきた「剛性指数競争」、つまり「より硬いソールがより良い」という単純な価値観に対する明確な挑戦状である。
自社の膨大なRetülフィットデータとヒューマンパフォーマンスチームの研究成果を権威の源泉とし、市場のパラダイムを「最大剛性」から「最適剛性」へと転換させようとする野心的な試みといえる。このシューズは、その思想を具現化した最初の製品なのだ。
Body Geometry:科学が裏付ける快適性と効率性
極限の軽量化と並行して、スペシャライズドが妥協しなかったのがBody Geometryテクノロジーだ。
このシューズには、10万回以上のRetül 3Dフットスキャンデータに基づいて開発された新型のBody Geometryラスト(靴型)が採用されている。このラストは、従来のサイクリングシューズよりも母指球部分が広く設計されており、足指が自然に広がるスペースを確保している。
この新しいラスト形状により、従来のデザインと比較して前足部にかかる圧力が最大で44%も軽減されると主張されている。これにより、長時間のライドで発生しがちな足の痺れや「ホットフット」と呼ばれる灼熱感を根本から解消することを目指している。
この基本設計に加え、以下の3つの核となるBody Geometry機能も搭載されている。
- 内反ウェッジ(Varus Wedge): アウトソールに組み込まれた1.5mmの傾斜が、足、膝、股関節のアライメントを整え、パワー出力を向上させると同時に最大出力の維持時間を平均10秒延長させる。
- 縦足弓のアーチサポート(Longitudinal Arch Support): アウトソールに一体成型されたアーチサポートが、ペダリング中の土踏まずの落ち込みを防ぎ、効率的なパワー伝達を促進する。
- 中足骨ボタン(Metatarsal Button): 中足骨を持ち上げて分離させることで、神経や動脈への圧迫を防ぎ、痺れや痛みの発生を抑制する。
スペック詳細と競合比較
S-Works Torch Remcoの特異性を理解するためには、市場における主要な競合製品との比較が不可欠である。
以下の表は、本製品と、オールラウンドモデルの標準S-Works Torch、スプリンター向けのS-Works Ares 2、そして最大のライバルであるShimano S-Phyre RC903の主要スペックを比較したものである。
| 特徴 | S-Works Torch Remco | S-Works Torch (Standard) | S-Works Ares 2 | Shimano S-Phyre RC903 |
|---|---|---|---|---|
| 公称重量 (サイズ42相当) | 148g | 225g | 220g | 225g |
| クロージャーシステム | シングルBOA Li2 + ストラップ | デュアルBOA S3 | デュアルBOA Li2 + ストラップ | デュアルBOA Li2 |
| ソール剛性コンセプト | 適正剛性 (小型カーボン) | 高剛性 (FACT Powerline) | 高剛性 (FACT Powerline) | 最高剛性 (指数12) |
| 主な用途 | 山岳/クライミング特化 | オールラウンド | スプリント/高出力 | オールラウンド/レース |
| 日本国内参考価格 (税込) | 77,000 | 49,500円 | 59,400円 | 54,450円 |
この比較から、S-Works Torch Remcoが重量でいかに突出した存在であるかが明確になる。その設計思想は、他のどのモデルとも一線を画しており、特定のパフォーマンスに特化した結果、汎用性やコストとはトレードオフの関係にあることが示唆される。
S-Works Torch Remcoのメリットとデメリット
これまでの技術的解析を基に、S-Works Torch Remcoのメリットとデメリットを客観的にみていく。このシューズは、明確な強みと、それに伴う無視できない弱点を併せ持っている。
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メリット
- 究極の軽量性: 片足148.2gという数値は、他に類を見ない。1gでも軽くしたいと願うヒルクライマーにとって、これはプラセボ効果を超えた、物理的なアドバンテージとなり得る。
- 革新的な快適性: 圧力を44%軽減するとされる新しいBody Geometryラストは、特に足幅が広い、あるいは痺れに悩まされてきたライダーにとって、これまでにないレベルの快適性を提供する可能性がある。
- 特化型パフォーマンス: このシューズは、クライミングという特定の用途に特化した「ツール」である。その目的においては、ミニマルかつ効率的なプラットフォームとして、設計通りの性能を発揮する。
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デメリット
- 価格設定:$699.99で日本では77000円でとても安い。この価格は、カスタムシューズに匹敵する。これは技術的価値を考慮しても、大多数のサイクリストにとって高価だが、日本人は得をしている。
- 構造的な妥協と耐久性への懸念: 軽量化のために犠牲にされたアッパーの構造は、パワフルなライダーにはホールド力不足と感じられる可能性がある。また、ナイロン製のトウキャップなど、一部の部品の耐久性には疑問が残る。
- 限定的な汎用性: これはスプリンターや、あらゆる状況で足を完全に固定したいライダーのためのシューズではない。その用途は極めて限定されており、オールラウンドな性能を求めるならば、標準のS-Works Torchの方がはるかに優れた選択肢となる。
- 標準インソールの品質: この価格帯の製品に付属するものとしては、標準インソールの品質は著しく低い。性能を最大限に引き出すためには、追加の投資が不可欠である。
まとめ:S-Works Torch Remcoがサイクリングシューズに問いかけるもの
S-Works Torch Remcoは、単なる新製品の枠を超え、サイクリングシューズの未来に対するスペシャライズドのビジョンを示す「コンセプトカー」のような存在である。
その本質は、レムコ・エヴェネプールという一人のアスリートの要求に応えるために、技術の粋を集めて創り上げられた、極めて純粋なパフォーマンスツールにある。
このシューズが市場に投じる最大の問いは、「適正剛性」という概念の是非だ。長年の「最大剛性」信仰に一石を投じ、データに基づいた最適化こそが未来であると主張する。
この挑戦が、業界全体のトレンドを変える新たな潮流の始まりとなるのか、それとも一部の特殊な要求に応えるためのニッチな実験に終わるのか、今後の市場の反応が注目される。
結論として、S-Works Torch Remcoは「世界最速のRemcoのために、世界最軽量のシューズを創る」という当初の目標を見事に達成した。
このシューズを推奨できるのは、ごく一握りのユーザー、すなわち、予算に糸目をつけず、重量を1gでも削りたいと願う競技志向のクライマーであり、かつ構造的なトレードオフを理解し受け入れられるライダーに限られる。
それ以外の、例えばパワフルなスプリンターやオールラウンドなレーサーにとっては、より構造的に堅牢でホールド感の強いS-Works Ares 2が、依然として論理的かつ効果的な選択肢であり続けるだろう。
そして、多くのシリアスライダーにとって、パフォーマンス、快適性、価格のバランスが最も取れているのは、標準モデルのS-Works Torchである。しかし、極限の性能を手に入れたいライダーは迷うことなく、S-Works Torch Remcoを使うべきだろう。









