生きていると様々な良いことや悪いことがある。ただ、それらには因果関係がある。悪いと思ったことはもしかしたら、良いことへの足がかりになり、良いことは奈落の底に突き落とされるきっかけになるかもしれない。
一生という長いスパンの中を生きて行くなかで全てが「順風満帆」などということはありえない。今この時も会社に行くのが嫌だという人もいるだろうし、昨日良い事があって浮かれている人だっている。
ただ、いつもそれらは背中を合わせ、隣り合わせに存在している。中国の古いことわざに「人間万事塞翁が馬 」という戒めがある。「じんかんばんじさいおうがうま」と読むその内容は次の通りだ。
昔、中国北方の塞(とりで)近くに住む占いの巧みな老人(塞翁)の馬が、胡の地方に逃げ、人々が気の毒がると、老人は「そのうちに福が来る」と言った。
やがて、その馬は胡の駿馬を連れて戻ってきた。
人々が祝うと、今度は「これは不幸の元になるだろう」と言った。すると胡の馬に乗った老人の息子は、落馬して足の骨を折ってしまった。
人々がそれを見舞うと、老人は「これが幸福の基になるだろう」と言った。
一年後、胡軍が攻め込んできて戦争となり若者たちはほとんどが戦死した。
しかし足を折った老人の息子は、兵役を免れたため、戦死しなくて済んだという故事に基づく。
単に「塞翁が馬」ともいう。
「人間」は「じんかん」とも読む。出典: 故事ことわざ辞典
良いことは必ずしも結果的に良いだけではなく、悪いことは必ずしも悪いことではない。それぞれある点のような「結果」に見えがちだが、線で繋がった「途中経過」にしかすぎない。生きているうちに起こるであろう、幸せや不幸は予測しがたい。
結果的には幸せが不幸にもなり、不幸が幸せにもなる。ただそれは誰にも予測できないし、いつどのタイミングでどちらかに転じるかは定かでないのだ。そう考えると、ある結果の一側面だけを見て安易に喜んだり、悲しんだりする必要はない。
我々が自分自身の中で思っている悩みや不幸なことは必ず好転する。ただ、誰にもその時がわからないから苦しむ。「不運だったけど結果よかったな」と思えるためには不運から好転を経験する他ない。その時振り返って始めて「人間万事塞翁が馬 」なのである。
緩急に富んだ山道を走るように、良いことも悪いことも隣り合わせだ。今は頂上めがけて辛く登り続けてるのかもしれない。しかし、必ず坂は終わりを迎え、楽な下りを走る日が訪れる。
ただ、楽に下っている時にこそ思い出して欲しい。つらく苦しい登りに挑んでいた時こそ、自分自身が成長している貴重な瞬間であることを。