「パンクした」と嘆き策を講じない愚かさ

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先日、シクロクロスの練習をしていたときの事だ。オフロードでやや砂利場を通ったときにパンクしてしまった。鋭利な石を踏んでしまったのかは定かでは無いが、いわゆるサイドカットだった。その場で私は予備のチューブや保守パーツを忘れてきたことに気づいた。

さらに厄介なのは、チューブレスタイヤだったという事だ。もはや気分はどんよりと落ち込む。ただ、事実として「パンク」したわけだから対策を講じなければならない。到達すべき目標は「タイヤに空気を入れて再び走行する事」だ。何事も前向きなある短パンのシクロクロッサーはさらりとチューブを差し出し「使って」という。

まるで、「それいけアンパンマン」の主人公のように自らの「一部」を削り差し出す。なんとも男前だ。私はそのまま下山する事を告げた。しかし、せっかく治ったんだからとそのまま連れられ、予定していた全ての練習をこなした。ここで一つ得られた事がある。

「パンク」したという事実に対してどのように考えて対処したか、おそらく当の本人(私)とチューブを手渡し再度走るように誘った第三者とでは、その思考が異なっている。一方(私)はパンクに嘆き、チューブレスタイヤだなめんどくさいな、替えのチューブ忘れた嫌だな。という思考。

もう一方は、パンクしたという事実を受け止めて建設的に物事を解決に向かわせ最善の道を模索する思考。同じ事態に遭遇しているわけだが、対応する処置はそれぞれ異なる。前者と後者どちらがより「最善策」だろうか。というよりも、前者の私は「策」ではない。嘆いてもどうにも解決しないのだ。

これらは、普段生活しているときにも同じようなシチュエーションに遭遇する。何か問題や、自分にとって好ましくない事に対してどのように振舞っているかだ。文句や嘆きを続けるばかりで、一向に改善策を講じない。事実として起こっている事から一歩進めるには何かしらの対処が必要だ。

それが「パンクを直して走り続ける」のか「潰れたタイヤでクリートを減らしながら徒歩で下山する」のかは自分自身で選べる。最善策は第三者から見れば明白である。しかし実際に当事者であった場合なかなかその判断ができるか難しいところだ。当事者でありつつ第三者目線を持つような思考には未だにたどり着けない。

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