砂浜から砂金を探す。

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自分が死ぬまでにどれくらいの人と出会うのか、統計学的に算出されたデーターを見て驚く。同じ学校や職場、近所の人は約3,000人程。小学校から考えれば妥当な数だ。親しく会話を持つ人は300人程。Facebookで知ってる人しかつながってない私は100名程度だから妥当だろう。

友人と呼べる人30人。これは賛否両論あるかもしれないが、費やす時間や関わりあいの深さも関係している。これらも大体大きくは外れてはいまい。親友と呼べる人3人。統計学的に見ればこの三人というのは絶妙な数で、例えば中の良い親密な関係のLINEグループで最も多い人数構成が三人だという。

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確率でみる 人

では、これらの人数を構成する確率を算出した結果は驚くべきことがわかる。

同じ学校や職場、近所の人と出会う確率は1/2400000(240万分の1)

親しく会話を持つ人と出会う確率は1/24000000(2千400万分の1)

友人と呼べる人と出会う確率は1/240000000(2億4000万分の1)

親友と呼べる人と出会う確率は1/2400000000(24億分の1)

今何気ない話をしている友人、バカみたいなやり取りをしているスマホの向こう側にいる友人と出会う確率はジャンボ宝くじの当選確率約1/1,000万よりも遥かに低い。そして、歳を取ればとるほど出会いも減っていき、友人も亡くなっていくだろう。確実にゼロに近づいていく。

われわれが陥りやすい間違った認識がある。ついつい周りにどれだけの人がいるかという「数」で見てしまいがちだ。友人が多いことを自分自身のステイタスとして扱う場合も多い。それらは本人の中で高い優先度に位置づけられている事なので否定はできない。

ただ、時代と共に淘汰され、ま違いなくその数を減らしていく。その最後に残る貴重な人は誰なんだろう。おそらく残った人の確率は、先ほど数値上でも見たとおりそう多くもない。というより少ない。

広大な浜の砂から、一つの砂金を見つけ出すのだ。その砂金は大事にするだろうか。それとも、適当にまた砂浜にぶん投げて、また次の砂金を探し始めるんだろうか。おそらく、歳を取ればもうそんな時間など無い。家族が砂金になるだろうし子供はもはや金を超えた存在になる。

確率で見れば尊い事実も、我々はしばしば蔑ろにする。いつか減っていく母数を増やすより、より親密な関係の人たちを大事にするほうがよほど有益だ。それは親だったり、自分を支えてくれる人だったり様々だ。時間を消費する相手を決めるのは自分だ。人と揃える必要はない。消費しがいのある人に費やす。

それら費やす理由をあとづけで説明しても良いかもしれないが、自分自身を納得させるために不本意なロジックを立てては元も子もない。本当に必要な分だけ、必要な人にだけ、自分の有限の時間を使うのだから。

時間は有限ではない、そして人もまたしかりだ。

取捨選択しながら人間関係は動いていく。何かを選択するという事は、何かを失うわけである。あれもこれも手に入らない。だからこそ、今眼の前にある選択した人間関係を大事にするのだ。今眼の前に居る何気ない人は、確率的に見ても奇跡としか言いようがない。

ただ、いつも当たり前にいすぎてその価値を忘れてしまうのだが。

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