私は「僕のジロ・デ・イタリア」が発売された時、何回か本屋で見かけていたものの、実際に買うかどうかは悩んでいた。理由はとても単純だ。山本元喜選手がジロのレース後に、欠かさずアップしていたブログの記事を、毎日チェックしていたからだ。だから書籍として形を変えても、内容自体は同じだろうし、情報の鮮度はもはや低く、なによりリアルタイム性にも欠ける。と、想像していた。
山本元喜選手が記す文章はとても楽しく、そして読みやすい。読者は、まるで沿道からレースを観戦しているかのような、臨場感あふれる疑似体験に引き込まれる。レースで苦しむ選手の心理や、映像の向こう側のトップ選手達が本当に目の前を通り過ぎていくような描写。今、彼以上に、文章を書く能力のある自転車選手を私は知らない。
だからブログの内容でも十分だった。そして、2017年7月6日の発売日に買うことはなかった。あれから3週間程経過し、本書の存在すら忘れていた頃、私は大阪駅前のヒルトンに併設されているジュンク堂書店にいた。探していた書籍は、山本元喜選手の本ではなく、2006年の「村上ファンド事件」で有名になった、村上世彰氏の本「生涯投資家」を探していた。
その本を購入してから、フラフラといつも通り自転車関連のコーナーへ寄り道する。とくに明確な目的は無いのだが、情報収集がてら素通りをした。そこで、1冊だけ置いてあった本書「僕のジロ・デ・イタリア」を見て、「そういやこんな本もあったな・・・」なんて思いながら、手に取り、丁寧にページをめくってみる(山本元喜選手にはもうしわけないのだが、要するに買う気のない立ち読みというやつだ)。
ただ、本書の数ページを読んだ時、私はあの時の「臨場感あふれる疑似体験」に引き戻されていく。書籍の始まりには、プロフォトグラファーの辻啓さんが撮影した美しい写真が散りばめられていて、あの日、唯一の日本人選手としてジロ・デ・イタリアを駆け抜けた山本元喜選手のその一瞬を、辻啓さんが写し出していた。
私は少しの間「臨場感あふれる疑似体験」から抜け出すのに苦労した。その場でジロ・デ・イタリアの第一ステージの章まで読み進めてしまい(もちろん立ち読みだ!)個人タイムトライアルのスタートを告げるカウントダウンがゼロになった瞬間、我に返った。私は帰りの電車の中で、村上世彰氏の投資本をビニール袋に封をしたまま、「僕のジロ・デ・イタリア」の続きを読み始めていた。
僕のジロ・デ・イタリアの感想
本書が魅力的なのは、長文で知られる山本元喜選手と、日本が誇るフォトグラファー辻啓さん、そして佐藤 喬さんが校正・編集を担当するという最強の布陣で構成されている。
最近の「読ませる自転車関連の書籍」はほとんど、佐藤 喬さんが編集と校正をしている。過去の記事でも掲載したが「エスケープ 2014年全日本選手権ロードレース」を読んでから、私は佐藤さんの「文章のファン」だ。とても読みやすく、はじめから最後まで読ませる文章で構成されている。
購入を後押しした理由も、佐藤さんが編集していたからという理由も実はある。また、辻啓さんが現場の空気感を伝えてくれる撮影していたから、書籍内の写真を眺めるだけでも楽しめた。そして肝心の著者、山本元喜選手は長文を書くことで有名だから、私もその癖があるので親近感がある。
肝心の中身の話はどうだろう。本書には特徴的な点がいくつかある。実際に世界最高峰のジロ・デ・イタリアを走った日本人選手が、これほどまでに事細かにレースの状況や生活を「文章として読める形」にした例は、いままで見たことがない。多少のコラム的な記事は見たことがあるが、長文の山本元喜選手が事細かに記しているのだから、それだけで価値がある。
また、選手にとって力量がわかるFTPをもろに書いてあったり、レース中のパワーデーターなども興味深い。そして、ワールドツアーの恐ろしさも克明に、そして初めて読む人にもわかりやすく書かれている。
山本元喜選手は自分の目の前で起きている事実を、文章レベルで起こせる能力に長けている。この「文章に起こせる」と「文章に起こせない」には大きな壁があるように思う。やはり、「山本元喜選手の文才」の存在がなければ、本書の企画は実現しなかったのだろう。私は山本選手がなぜあそこまで細かな事を描写できるのか、不思議でならなかった。しかし、その明確な理由については、本書の冒頭を読めばすぐに理解できた。
彼は元々、自転車選手ではなく「学者」になりたかったらしい。その内容は本書を読んでいただくとして、学者になりたかった少年が、いつの間にか世界最高峰のジロ・デ・イタリアを完走するという真実の物語は、実際読んでいて楽しい。
まるで、ドラゴンボールの孫悟飯が、「将来は学者さんになりたい」と言いながらも、畑違いの宇宙最強戦士になっていく物語を見ているようだった。
他にも山本元喜選手らしい「文体」があちこちに見て取れる。「海外選手はなぜ強いのか」「海外選手はどんな練習をしているのか」「プロトンで何が起こっているのか」「レース後の食事は」「レース後の回復走は」「移動日の過ごし方」「アシストの役割」そして、あの日ジロ・デ・イタリアで何が起こっていたのか―――。
「山本元喜のロードバイクトレーニング」なんて形と名前を変えて、書籍化しても売れそうな内容があちこちに盛り込まれている。
活字中毒の私は、本書を今年No.1の自転車書籍として位置づけている。今年一番なんて気が早いかもしれない。しかし、山本元喜選手が走ったジロ・デ・イタリアの疑似体験ができること自体に今、興奮している。
2016年のあの日、私は山本元喜選手がレース後すぐにアップする記事を、毎日毎日心待ちにしていた。山本元喜選手を沿道から応援する観客にでもなりきったように、食いつくように見ていた。本書「僕のジロ・デ・イタリア」は、私達をもう一度、あの暑い5月のイタリアへ連れて行ってくれる。
本書は間違いなく、今年最も面白いノンフィクション書籍だ。