目的のない練習と、目標のない練習。

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人が行動を起こす動機は様々だ。強くなりたい、ベスト記録を出したい、人よりも早くなりたい。現状の自分とは全く違う魅力的な自分へ到達するために行動を起こす。ただ、行動を起こしたあと、幾らか時間が経過すると、途端に「ここはどこだ」と砂漠の真ん中に取り残されたような感覚におちいる。

大抵、何かの節目だったり、何かの終わりだったり、何かの始まりだったり。そしてスランプだったり、思い通りの練習ができなかったり、物事がうまく進まなくなったときにジワジワと頭の中に「いったい何のために」という発想が芽生えてくる。これはよく私がおちいっていた典型的なパターンだ。

ただ、少しだけ年齢を重ねて賢くなってきたのか最近では容易に抜け出せるようにもなった。原因は単に「目的」を忘れてしまっていることがほとんだ。間違えてはいけないのは、気合でどうにかするかだとか、前向きに考える!だとか、抽象的で付け焼き刃な思考を持たないことだ。

「ここはどこだ」と砂漠の真ん中に取り残されている自分を客観的に見つめ、抜け出すための「道具」の使い方を教えてあげればいい。そしてその道具は魔法の道具でも何でもない。

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目標と目的

私はしばしば、練習に身が入らなくなる。タイトルにもあるとおり、原因は「目的のない練習と目標のない練習」を無意識のうちに行ってしまうからだ。やろうと思って、やってるんじゃない。何か良くないこと、不意にツマづいてしまうことがあると、頭から袋を被(かぶ)されてぐるぐる回されて、「さぁ、行きたい目的地へどうぞ!」なんてことを言われているような気分におちいる。

ここで「目的」と「目標」2つの言葉がでてきた。私は理系だけど、本多勝一氏の「日本語の作文技術」を読んでから、日本語の持つメカニカルな仕組みに興味を持つようになった。そこで、「目的」と「目標」という言葉で少し遊んでみようと思う。そもそも意味の違いがよくわからないから、例を上がりて文章を作ってみる。日本語としての正しさや、研究という大それたことではなくて、日本語を母国語とする人が持っている感覚的な話だ。

まずは、それぞれの言葉の末尾に「地」を付けてみよう。「目的地」と「目標地」だ。例えば「ツール・ド・フランス最終日の○○地、シャンゼリゼはどこにあるのでしょうか?」と書いたら○○には「目的」という言葉がしっくりくると、そう答えるのが大多数だ。感覚的には「目標地」はしっくりこない。

つづいて、「地」を「値」に変えると、文脈次第でしっくりくる場合もある。

「ASOは、ツール・ド・フランスのディスクブレーキ仕様車の使用率を、本年度は50%以上にするという目標値を定めた。」というように。この場合「目的値」とは言わない。だとすると、「目的のない練習と、目標のない練習」も同じ内容を持つ練習ではないと、薄々感づいてくる。

コーチに「目的を持った練習をしなさい」と言われる場合と、「目標を持った練習をしなさい」と言われた場合、言われた側(がわ)は本当に理解ができているのだろうか。「目的」と「目標」というマトは、それぞれ全く別々のことを指している。では具体的にどんな「マト」なのだろうか。

「目的」と「目標」はしばしば同じ言葉のように混同される。実際のところ違いがあやふやで受け取った人によっては、全く「マトハズレ」な認識をしているかもしれない。ただ、何かを「目指している」という意味では同じだ。では何が違うのだろう。そこで、道を案内する例をとりあげてみよう。例えば、こんなふうに。

「レース会場までの道のりは、あのカフェの青い看板を左に曲がって、そこから真っすぐ進んで、突き当たりの自販機をすぐ右だ。途中、林の中を歩いている間は右手に見える白い煙突を頼りにするといい。そのうちレース会場に着く。」

この道案内の中で、「目的地」と「目標物」は何?と聞かれたら大抵想像は付く。説明の中で、行きたい「目的(地)」と、その過程で目印になる「目標(物)」が登場した。カフェの青い看板を左に曲がったり、自販機を右に、白い煙突を頼りにして進むことは「目的」ではなく「目標」だ。ただ、明確な目的(地)があるが故に、過程で登場する目標(物)が良い役目をになう。

目的と目標をより探っていけば「目的」とは最終的に実現したい、成し遂げたい、到達したい目指す物と定義できる。対して「目標」とは、目的を達成する過程に設けられた「複数からなる目印」と言えよう。


しかし、場合によっては「目標」から多少外れていたとしても、また違う「目標」を目指した結果、目的地にたどり着ける場合もある(時間はかかってしまうが)。目標は、誰かが定めてくれる場合もあるし自分で定める場合もある。だから、定めた目標が「目的を早く達成させてくれる保証」はない。

しかし過去の経験、一度でも目的地にゴールした人は、経験則を持って不要な目標を予め排除してくれる場合がある。目標にしなくとも、別の目標をいくつかクリアすれば、目的地にたどり着けるという経験則がある。

ここで、あの問題について考えてみたい。「練習することが目的になっている」としばしば投げかけられる嫌みの言葉だ。この嫌みの真意をかみ砕いてみると”レースで勝つ”という「目的」を掲げていたのにもかかわらず、その過程に設けられた目標の目印「練習する」が、いつしか昇格し「目的」になっているのではないか」、と言いたいのだろう。

大きなお世話だ(おっしゃるとおりだ)。

いや、毎日練習することが目的ならばそれでよい。間違っていないし「練習をした」という事実によって目的が達成される。「練習する」ことがゴールなのだから、確かに目標達成だ。それ以上でも、それ以下でもない。ここで間違っていけないのは、当初掲げていた「目的」が「目標」とすり替わっていないことを確認をしておく必要がある。そのためには、柱となるブレない初期設定が重要になってくる。

目的を定めるという初期設定があやふやで、目的地に向かう途中で「これでいいや」的な状況になってくると、私は途端に「砂漠の真ん中に取り残されたような」感覚におちいる。目標も、目的も幾らか時間が経過すると、袋を頭から被(かぶ)されてぐるぐる回されて、「さぁ、目的地へどうぞ!」なんてことを言われているような状況におちいる。

「目的と目標がすり変わる」や「目的のハードルを下げる」は、そもそも今進んできた過程を否定する。歩んできた道のりが、本当に正しかったのかと疑うには十分すぎる「設定変更」だ。どこ(目的)に行って良いのかわからないのだから、目標すら疑い始める。本当に正しいのかと悩み、路頭に迷い、砂漠の真ん中に取り残されたような気分におちいる。

余談だが、設定した目的は紙に書き出して見える場所に張っておいた方がいい。人間は夢中になるとどこを目指していたのか、どこに落とし所を持っていこうとしていたのかを忘れる。「目的」を文字として見えるように壁に貼っておくだなんてレガシーな方法だ。小学生や中学生がよくやっているような行為で、馬鹿馬鹿しいような話だけれど、目的地を見失わないために大人でも効果がある。実際にこの方法には強力な効果がある。書籍「ブレイン・プログラミング」にまさに書いてあるから驚いた。機会があれば読んでほしい。

さて、今せっせと行っている日々のトレーニングの意味付けを考えてみたい。ふだんのローラーで「300Wを20分」は目標なのだろうか、それとも目的なのだろうか。実際どちらに属しても間違いではないことは、それぞれの言葉の意味からも理解できる。ただ、「300Wを20分」が「目標」だとすると、どうやら何かの過程であると定義しなくてはならない。この過程の先には、目的が必ずあるはずだから、目指す目的を具体的に自分の中に定義しておく必要がある。

目的は、「2月の沖縄のレースで勝つ」でもいいし「シクロクロスの年間ランキング1位になる」でもよい。その上で設定した目標が「60分 300W」なら納得がいく。個人のトレーニングと言えばわかりよい。しかし、チーム練習の場合はどうだろう。

チームで練習する恵まれた環境が週末にある、とする。みんなで集まって練習する際の目的と目標は何だろう。この初期設定があやふやだと、よくわからない練習会におちいる。例えば、仲間内の練習でありがちなのは、最初だけ勢い良くロケットスタートしてゴールに向かって失速していく練習。どなたか私にわかりやすく納得の行く説明で、この意味を教えてほしい。ただし、本人の自己満足以外のわかりやすい説明で。

ついつい一人でもできること、さらには日々のローラーでもできることをやってしまう場合がある。目的と目標が明確化されていない場合に多い。しかしながら、「オレの眠れる恐ろしいパワーをとくとご覧に入れるッッッ!」や「誰が一番強いか力の見せ合いっこする」が集団で集まった(集めた)目的なら大いに目標達成だ。

ただ、多くの場合集団の練習は「全体の底上げ」や「皆が強くなる」といった目的が期待されることが多い。体力もそうだし、技術もそう。脚力差が当然ある中で、工夫しながら全体の走力向上を図るかが試される。集団の練習は、ふだんの個人練習でできることと分けて考えるべきだ。

もしも「皆が強くなる」という目標を定めるならば(別に、おれの眠れる・・・でも良いのだが)、その上で「集団で集まっている」という重み付けがされるので、「最初だけ勢い良くロケットスタートしてゴールに向かって失速していく」方は退場を通告されてもおかしくない(何度も言うが、「おれの眠れるパヮ・・・の場合はこれでよい)。

それでも「目的のない練習と、目標のない練習」を繰り返してしまったら、本当にどうしたら良いのだろう。長続きしないばかりか、貴重な時間を無駄に消費していく。答えは単純で、裏返せばいい。「目的のある練習と、目標のある練習」だ。定義を先に設定すれば良い。「テーマを持って」と、よく好んで使う人がいるが、同じ意味だ。定義が確立されれば、あとは目標を幾つか設ける。レース会場への道のりを目指したように、目標物をたどる。やることは至ってシンプルだ。

「ヒルクライムの大会で優勝するために」、「ロードレースで優勝するために」という目的を設定して、そのための目標を1つ1つ達成していく。300Wを20分でもいいし、300Wを60分でもウェイトトレーニングでもいい。ただ、遠回りしても無駄足を使っても、いつか目的地にたどり着く。ただ、目的地に向かっていくのは私だったり、あなたにしか行動できないのだから保証などない。

しかし、競技者でいられる時間はそんなに長くはない。歳を取ればなおさらだ。だから、無駄な時間を使わないように、最新のトレーニング方法だったり、効果的な食事とトレーニングの組合せだったり、エビデンスがしっかりとした論文の裏付けを引っ張り出してきて調べたりする。

これらは目的地に向かう際に、「より確からしい目標」を設定するために必ず必要なことだ。そうでないと、残酷にも時間と若さはどんどん過ぎていく。いつまでも右肩上がりではない。いつもみんなが色んな「目標物」を知りたがっていたり、アンテナを高く張っているのは、残り少ない時間を有効に使いたいからだろう。そのためには有効な目標が必要になる。

目的を達成しようとしたとき、私はいつも道案内を思い出す。目的地ははたどり着かないと見えない。だから「表彰台に登ったらいつもと違う景色が見えた」は、本当かもしれない。そのためには、見えない先を見据えつつも、自分の目の前にまず見える、かつ手の届く目標を1つ1つ着実に達成していくしかない。

「目的のない練習と、目標のない練習」をしてはならない。必ず「目的地」を設定することだ。ときには遠回りの目標や、近道になるような目標もでてくるが、それらの目標を1つ1つ達成していけば、少しずつ目的地は近づいてくる。

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