雑誌やメディアの文章に「言葉が見つからない」とか「かける言葉がない」という文言がある。実際にそのような経験をしたことがなかったから、実感を持ったことはなかった。私も文章として、今まで何かしらのことがあっても、大抵それらしい言葉を見つけて投げかけたり、書いてきたりはした。ただ今回のことは、文字通り言葉が見つからなかった。
ちなみに、今書いている文章は数日前のものだ。
家族ぐるみでの付き合いをさせて頂いていたり、娘さん、息子さんが生まれた頃から、またうちの娘が生まれた時は元旦に、お包みを持ってあそびに来て頂いたり、自転車の枠にとどまらない交友関係、いや、人生の先輩、一つの基準としての存在だと思う。
というか、書ききれない。
もう10年以上前、私が確か20代ぐらいの時に一方的に知っていた松木さんや景山さんとどうにか練習したくて毎週高山朝練に通った。初めは本当に5分くらいしかついていけず、次は10分、毎週足繁く(勝手に)通って、三ヶ月後ぐらいに高山第3までついていけて、最後まで付いて行ったら、半年後ぐらいに確か「一緒にロング行くか」と連れて行ってもらったのが始まりだったと思う。
当時から小物の私なんぞの名など、誰も知らなくて「だれこいつ」状態だったけど、当時はSNSもなかったから、飛び込み営業のように顔と名前を覚えてもらうまで半年くらいかかった。とにかく、一緒に練習してもらいたかったから、練習した。始まりはそんな感じだったかなと、なぜかふと思い出していた。
いま、あの頃のモチベーションがあるかと問われたら、「いや、ない。」とはっきりと答えられる。
色々と知りすぎてるがゆえ、良くも悪くも様々な事を一緒に共有してきたがゆえ、何故かひどく落ち込んだ。正直、知り合いの誰かが何かあってもどこか遠い国の出来事で、それほど人の痛みを感じなかった。遠い国の貧困や戦争のことよりも、自分の虫歯や柱にぶつけた小指の方がよっぽど痛みを感じた。
ただ、今回ばかりは違っていて、色々と何故か思い悩んでしまった。仕事や家族のことを知っているがゆえに、本人の気持ちを考えると、「頑張ってください」だとか「早く良くなって」だとか上っ面の投げかけを簡単にできない。申し訳ないけど、人によって様々な主観があるし、主張があるとおもうが、「人の痛みを感じていない」からこそ、自分はこれまで簡単にそれっぽい言葉をかけてきたのだなと気づいた。
今回は言葉が、ほんとうに見つからない
。どこにも、ない。
「んなこと、言ってないで練習しろボケ」と言ってきそうな気もする。ただ、本当にレースに出て結果を残す「遊び」が今の自分が置かれている立場や、家族のことを考えると本当に必要なことなのかと考えると決してそうじゃない。真空にはどっと空気が流れこむが、自分の中に大きな空洞が空いていて、良くない考え方がどっと入ってくる。
とりとめもない想いを書き並べたが、この文章に何か意味があるわけではないし、ただ単に自分の頭の整理なのかもしれない。
これまで、様々な経験や出会いや別れを重ねてきたが、どれも自分のことのようには考えられず、痛みもそれほど感じなかった。ただ、今回ばかりはどんな言葉も不適切で、理解しがたく、整理しがたく、受け入れるのが困難だ。人の痛みを感じることはこれから先ないかもしれないが、
普段の何気ない日常や、土日に走れること、家族と遊びにいけること、仕事ができること、あらゆることに感謝するようになった。こういう出来事がないと、そう思わないぐらいに普段の生活に麻痺していたのだろう。色々と気付かされてしまったものの、今回の件は反面教師にならないで欲しかった。
いまは、生きててよかったと心底思う。