なぜ人は間違ってる事を正しいと思い込むのか

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自分は間違えていないという間違い

AさんがBさんに対して正しいことを言う。受け取ったBさんは「それは間違いだ」と判断したとする。この時点で、Aさんが放った「正しい」の基準は誰が決定するのだろうか。

仕事で意見が衝突した時に、度々目にする光景だ。

おおよそ、この「正しい」の基準は、多くの先人が経験してきた経験則と、正しいとされる分母の数から成り立っているように見える。話題のSTAP細胞の論文の「正しさ」例をあげる。本論文のような一般人の知識の範囲を超越した世界の話であればあるほど「正しい」の判断が揺らぎやすい。

それはなぜだろうか。実際は論文が正しい「かも」しれないが、周りで多くの研究者による事象の再現性が認められなければ、「間違い」とされる。やはり「正しさ」とは母数が重要である。

正しい(と思う)事が確認されたデータに基づき、母集団が多く形成されればされるほど、人の思考自体の正しさが決定されて行く。とするとここで疑問が残る。皆(多くの母集団)が「正しい」といっているならば本当に正しいと言えるのだろうか。

人間関係(コミュニケーション)と、科学(学問)でその特質は異なるが、正しさとは何から発生するのか少し考えてみたい。

人間関係(コミュニケーション)の正しさ

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自分(わたし、あなた)の考えていることは本当に「正しい」と言い切れるだろうか。正しいと言えるものと、「これは正しいんですかね」と首をかしげる事象が自分自身の中に共存している。「正しい」と思っていたとしても、自分自身を分析すると面白いことに気づく。

それは、「誰を」目の前にして「正しい」と思うことを宣言するか、によって自分自身の内在する「正しさ」にフレがでる。いわば誰を目の前にしているかで、自分自身の「正しい」が「間違い」であるかもしれないと揺れ動くのだ。

例えばこんな例はどうだろう。

自称中級者のロードバイクレッスン

自転車を始めたばかりの人に、中級者(自称)がダンシングを教えたとする。この時ばかりは、得意げにあたかも自称中級者の「正しい」とされるダンシングを伝授するだろう。何年もトレーニングしてきたかのような口調でレクチャーするかもしれない。

または、「コンタドールはこうやって、、、」と自称中級者は自転車を始めたばかりのサイクリストにアルベルトコンタドールの「正しい」ダンシングを伝授するかもしれない。

場合は変わり自称中級者がいざプロチームの講習会に参加することになった。彼はここで、「正しい」ダンシングを学ぶことになる。自分自身の中にあったダンシング(プロに習うまで正しいとされている)は「間違っている」とプロに判断されてしまった。

自称中級者の「正しさ」をプロが「正した」のだ。

このときに、自称中級者はどう思うだろうか。ダンシングを先の初心者に対して行なったことと、同じようにプロに説明して伝授できるだろうか。中級者はプロに「自信」を持って、これが「正しい」ダンシングだと、先の初心者にしてあげた事と同じようにレクチャーできるだろうか。

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この、自称中級者の内在する「正しさ」は、初心者を対象にした場合と、プロを対処にした場合とでは、「正しさ」がゆらゆらとフレている。いわば、誰を目の前にしているかで「正しさ」の基準は曖昧になってしまう場合がある。

自称中級者が初心者に教えた「正しい」ダンシングは本当に正かったのだろうか。彼を含めた私たちが思っている正しさとは、一体何なのだろうか。

自転車に限った話ではなく、仕事でも同様であると言える。後輩と上司にそれぞれ物事を説明する際、自分自身の中で正しいとされる事をそれぞブレることなく伝える事ができているだろうか。

経験値 対 経験値

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ここまで思考を掘り下げて行くと、見えてくるものがある。人間のコミュニケーションにおいて正しさとは「経験値」対「経験値」の比率で変わってくる可能性がある。とすると我々が持っている「正しさ」とは非常に曖昧なものだ。経験値として経験の引き出しが多ければ多いほど、正しさは、より「確からしさ」に変わってくる。

では、経験値が少ない人はどうしたら良いだろうか。意外と簡単である。経験値のある(年長者や知識人)から幾らかの知恵と経験を分け与えてもらえば良い。自分の足りない所を補完してくれる。それは特定の一人でない方が良い。

「正しさ」の基準は常に曖昧でゆらゆらしている。だから特定の一人よりも多数の知識人の知恵を得るべきだ。そうすれば自ずと「正しさ」は収束してくる。冒頭に述べた母集団の原理だ。ただしこの話は人間と人間の話しであり、科学の場合は「正しくない、出きっこない」が望まれる場合がある。

ただ色々な情報や経験を飲み込んでも、最後に「正しい」と判断して飲み込む事象はその人それぞれの自分自身での中で決まる。いわば自分自身で「正しいと選択」したのだ。たとえ間違っていたとしても。

従って、「正しさ」の決定のためには「間違い」を正しいと思い込む事も重要である(非常に危険だが)。いわば人とは、間違った事を「正しい」と思い込む感情の動物なのだ。論理など無い。ここで今読んでいる書籍デール・カーネギー氏の「人を動かす」から一文を添え結びにしたい。

人間はたとえ自分がどんなにまちがっていたとしても、決して自分が悪いとは思いたがらないものだ

人を扱う場合には、相手を論理の動物だと思ってはならない。

相手は感情の動物であり、しかも偏見に満ち、自尊心と虚栄心によって行動するということをよく心得ておかねばならない。
(心理学者ハンス・セリエ)

自分自身の中にある正しい事は本当に「正しい」のだろうか。

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