少しばかりお休みをしていた。確かに年末から年始にかけてはいつもどおりの生活をしていた。毎朝早起きして、ローラー。正月だからとドカ食いするわけではなく、むしろ普段後回しにしていたことを黙々と処理していった。すると年が明ける前の連休二日目、予定していた雑作業のタスクは全て終わってしまった。
自分の小学校の頃に夏休みが終わりに近づいてきた時、一気に宿題を終わらせたあの感覚の逆だろうか。「はじめに終わらせる」のだ。ただし、話はここからだ。目の前にある自らの「やらなければならないこと」をどんどんこなすと、すこしばかり面白い発見がある。
やることの「芽」
人生のタスクを考えていく中で、私は今年「新年の目標」をたてることはしなかった。なぜだろうか。確かにみんなが皆こぞって「今年の目標は〜」といったように、盛んに公開していく。ソーシャルには「今年の目標」と銘打たなければ今年が始まらないとばかりに、素晴らしい目標があちらこちらに記されている。
ただ、感のいい人も鈍い人も目標を立てるだけでは何ら意味がないと段々と気づき始めている。
私は「目標を立てる」という行為自体を否定しない。ただ、ここからもうひとつ話を落としこむと、目標を達成するために「どのようにして」というプロセスが抜けている。ここで、先ほどの話に戻る。目の前にある自らの「やらなければならないこと」についてだ。
目標を達成するためには、もちろんすぐには達成できない。長期的に見ても困難な目標だったり、自分自身の根本的な性格や悔い改めたい粗末な行動を改善したいとする。その為には、目の前にある自らの「やらなければならないこと」を淡々と処理していかなくてはならない。
この「やらなければならないこと」は、人それぞれの目標の中に縦横無尽に駆け巡る課題として無数に存在している。だから、まずはその課題を自分自身で認識しなくてはならない。目標というつかみ所のない雲のような感覚を、現実の物事として表すにはこの「課題」を一つ一つ潰していくしかない。
ここで、課題をこなしていくうちに一つの気づくことがある。
今取り掛かっている課題をこなしていくうちに、また新たな課題が生まれてくるのだ。なんだ、そんなアタリマエのことかと言われれば否定はしない。ただし、「ある課題にむきあっている間」はその新種の課題の存在になかなか気づかないのだ。私はこの課題をこなさないと浮かび上がってこない課題を本記事内では「課題の芽」と呼ぶことにする。
この課題の芽は今取り組んでいる課題をこなしている間、地中深くに根を張り巡らせる。そして、課題の収穫が終わると、「待ってました」と言わんばかりにひょっこりと芽を出す。そこで私はこの芽に気づき課題解決(収穫)すべく、せっせとあのてこのてを使って解決の方法を模索するのだ。
この繰り返しが目標という漠然とした定義に、少しつづつ近づいていくためのプロセスになる。
一度に、一つのことをする
ただ、私達人間は一度に一つのことしかできない。すこし残念な話であるが、脳の仕組み上マルチタスクで物事を処理することは不可能だ。一見マルチタスクに見える(つもりになっている)ことでも「割り込み処理」の行動として行われる。
一つのことしかできないのだから、小さな芽の収穫を怠ってはならない。どんどん芽は大きくなり課題は大きく大木のように成長していく。そして、今年たてた「目標」のきりくちは姿、形を変えて「問題」になる。「目標≒問題」となり次第に課題をこなすことが苦痛になる。
この芽は、芽のうちに簡単に指先で摘んでおいたほうが楽だ。後々大木になりノコギリで切らなくてはならない事態になるほうがやっかいだ。そのほうが労力がかかるし、時間もかかる。我々は先に必ず用意されている問題に対して、「一括払い」するのか「分割払い」するのか試されている。
芽はかならず、どんどん出てくる。ただ、顕在化するまでには少しの時間を要する。今年は目標という漠然とした雲のような存在を「意識」はしておくが、目の前にある課題という芽を一つ一つ詰んでいくことを念頭に置きたい。そうすれば、いずれ目標という言う名の頂へかならずや近づき、到達するだろう。