先日いつものカフェでこんな話をしていた「車やバイクの雑誌に比べると、自転車雑誌はとても少ない」と。自動車やバイクのカテゴリは、市場と規模の大きさから様々な趣味趣向の雑誌が存在している。そして雑誌やメディアを支えるライター、評論家、専門家たちの数も多く、それらは自転車カテゴリとは比べ物にならない。
自動車関連の代表的な雑誌と言えばCG(CAR GRAPHIC)だ。創刊50年以上つづく厳正中立な評論と、美しい写真が魅力の雑誌である。対してバイク関連ではチャンプロード(2016年11月26日発売号をもって休刊)のような有害図書に指定されるような雑誌まで、その幅は広く多様性にあふれている。
どのようなジャンルの雑誌を読んでいても、必ず登場するのは「専門家」や「評論家」という立場の人たちだ。テレビであればコメンテーターだし、投資の世界でいえばアナリストだ。彼らの解説や説明はとてもわかりやすい。それでいて雑誌に載るような専門家の中には、文学に近い言葉を巧みに使いこなすライターさえいる。
専門家の意義
雑誌を読んでいると、しばしば違和感を感じることもある。専門家たちの説明は、たしかにわかりやすく、ウンウンと納得できるような説明を巧みに展開する。しかしそれらは必ずしも「正しい」とは限らない。例えば株の専門家がそうだ。「今年、この株が上がる!」や「これから下がる株」といったたぐいの話は、雑誌の表紙をいつの時代もにぎせている。しかし専門家の意見と言えど、当たる保証などはどこにもない。
ただ、金融系や自動車の専門家の話はまだマシだと思う。金融系には当たるかは別として様々な分析する手法があるし、自動車関連であれば諸元表から最高出力(PS)、最大トルク(kgf・m)がはっきりとわかる。「5.8秒で100km/hに到達」といったように、具体的な数値をもちいた表現も可能だ。「前作より車体重量が減り、最高出力が引き上げられた結果さらに加速が良くなった」と自動車をインプレッションすることも可能である。
ある意味「そりゃそうだよね」と思うが、それぞれの業界ではある程度”正しそうな評価”を下すことができている。
対して、悩ましいのが自転車である。雑誌やWEBを読みはするものの、疑問符が思い浮かぶことがしばしばある。きっと当ブログの内容に対しても、そう思っている人が居るのと同じことだ。例えば「剛性」というキーワードが使われる記事は注意が必要だ。「剛性」とは何ともつかみどころのない表現だということに最近気づかされた。
SILCAの研究所が実施した「剛性」に関する実験結果によれば、「タイヤの剛性が支配的すぎてフレーム剛性をスポイル(台無しに)する」という結果を公開している。単純な文字として「剛性が~」と表現されていたとしても、ライダーが感じる「剛性」のほとんどは「タイヤの剛性の変化」を感じている場合がほとんどだという。
どういうことだろう。
こちらの実験結果を見てみれば一目瞭然だ。例えば25Cのタイヤと7Barの組み合わせに注目してみる。上記の表では、剛性が異なる3種類のフレームが登場する。最も剛性が高いAeroRaceフレーム(250N/mm)のシステム剛性は36.3N/mmだ。「システム剛性」とはバイクの完成状態(タイヤ、フレーム、ホイール)で全てが組み合わさった総合的な剛性を表している。
フレーム剛性に比例して、当然ながらシステム剛性も落ちていく。しかしこのデーターで最も注目すべき点は、先ほどもふれたとおり「フレーム剛性」なんてものはタイヤのセッティング1つで簡単にスポイルされてしまう点だ。
具体的に「赤線」が引かれたポイントを見てみよう。
- システム剛性36.3N/mm:AeroRace(250N/mm),25mm,7bar
- システム剛性36.3N/mm:Comfort(150N/mm),25mm,8bar
それぞれのフレームにおけるシステム剛性は同一である。フレーム剛性の差は100N/mmだ。トルクレンチを使ったことがある方は100N/mmがどれほど大きいかわかるだろう。このデーターが示していることは、いくら硬いフレームを選んだからといっても、タイヤの空気圧を「たった1Bar」だけ上げてしまえば硬いフレームだろうが、柔らかいフレームだろうが、総合的にみた「システム剛性」は同じになってしまう。
実験結果は、コスカボUSTの記事内でしつこいほどに書いていた「タイヤと空気圧が支配的すぎて、もはやホイールやバイクのインプレッションなど不可能だ」を裏付ける実験結果の参考資料として十分引用できる。
システム剛性は、上図のようなバネを想像するとわかりやすい。フレーム、ホイール、タイヤ、それぞれをバネで表し、一つにつなげるイメージだ。
こうなってくると厄介なのは、バイクをインプレッションする評論家たちである。これはとても都合の悪いデーターだ。どんな機材であれ、それぞれに「剛性」がある。タイヤ、ホイール、フレームを1つの「バネ」として考えた時、これらすべてが組み合わさった1つのバネをどう感じているかを、人間は「システム剛性」として感じとっている。
問題はここからだ。インプレッションでありがちな「フレームの剛性感は・・・」という表現や「ホイール剛性感とかかり具合は・・・」といった表現だ。「すべてが組み合わさった1つのバネ」としてシステム剛性なのだから、「ホイールの剛性」の要素だったり、「フレームの剛性」、「タイヤ剛性」それぞれのを独立した要素として判別(または分別)し、感じ取れていることになる(正しいかどうかは別として)。
これら1つ1つの要素を判別し、評価することができなければ、1要素(ホイール、フレーム、タイヤ)を判別することはとうてい不可能な話だ。ここまで来ると、フレーム単体やホイール単体のインプレッションのたぐいは、もはや不可能であると言いたくなる。
「すべてが組み合わさった1つのバネ=システム剛性」は先に示したとおり、タイヤの空気圧1barで変わってしまう。雑誌のバイクインプレッションにおいて、フレームの評価が示される場合に注意しなければならないのは、ホイール選択、タイヤ選択、チューブ選択、タイヤ空気圧だ。
どんなテストであれ、前提条件として足回りで使用する機材がバラバラであっては、いったい「何の」テストをしているのかさっぱりわからない。それでも専門家たちは「ギア一枚かかり違う」「まるで魔法のじゅうたん」「最後まで脚を残せる剛性感」という表現を多用する。
最近の傾向としては「軽量系バイクだが反応もよくクリテリウムに使える」や「エアロ系で重量もかさむが登りもこなせる」といったたぐいの「カウンターインプレッション」が流行りだ。いわゆる特性の逆ひねり表現とも言うべきか。これでは言葉遊びになってしまい、そしていつしか文学的な路線(あ、うちのブログのことだw)へと脱線し「インプレ文学」なんて揶揄もされてしまう。
といったように、今回の記事は自分自身への戒めも込められている。これらSILCAの実験結果を眺めながら、本質的な部分にせまる事で今後の機材インプレッションを書く際に、改善していかねばならないと考えている。
ところで、こうなってくると疑問に思ってくるのは「専門家の意義」とはいったい何なのかという話だ。その答えに近づけてくれたのは1杯の、コーヒーだった。
コーヒーと自転車機材
専門家の意義は何だろう。私は次のような定義を提案してみたい。
「人が漠然と感じていることを、わかりやすい言葉に変換できる人」
と。このような定義をする理由は、1杯のコーヒーだった。冒頭に出てきたカフェで日本トップクラスのバリスタが淹れる「大会用コーヒー」というやつを頂いた。いわゆる「決戦用」だ。「大阪の○○で飲むと1500~2000円くらいよ」という希少豆のコーヒーだった。実はモーニングセットでパン、サラダ、ヨーグルト付きで648円でたまに出してくれる。
この大会用のコーヒーを初めて飲んだのだが、今まで飲んだ中でとにかく1、2を争うほどうまかった。
毎回バリスタさんにコーヒーの感想を聞かれるのだが、私は「今日もうまい!」という表現しかいつも出てこない(だって本当にそう思うのだから)。この大会用のコーヒー豆はとくにウマかったから「マジでうまいっす!」という、いつもよりさらにおいしさを強調する程度の低い表現を付けた程度だった。
しかしバリスタさんはこのコーヒーに対して、わかりやすく次のような説明をした。
「口に含んだ瞬間は少し苦みのあるチョコレートような風味が強く、のど元から鼻に抜ける際には、わずかにオレンジピールのような柑橘系の香りが感じられます。」
と。その瞬間、口に含んでいた少しばかりのコーヒーは突然フルーツに変化し、色鮮やかなオレンジ色へと変わっていった(ような気がした)。この時「専門家の意義」について、あたらしい答えにたどり着いたとも感じた。小学生並みの感想「マジうまい!」という表現とは異なり、バリスタが発した説明を脳が理解したことで、一気に納得感が増していったのだ。
「そうそう、その感じ、それが言いたかった」と。
専門家とは、「素人が漠然と感じていることをわかりやすい言葉で表現し、納得感を与えてくれる存在」という先ほどの説明につながっていく。私はバリスタさんが淹れるコーヒーの説明をいつも楽しみに、練習帰りに寄り道している。オープンしたての頃に、私が初めて発した感想はというと、「なにこれ缶コーヒーよりうまい!」だった・・・。
かれこれ6年近く経った今でも、それをまだ(ショックだったのかはわからないが)覚えていた。しかしバリスタが発する言葉と説明には、素人の私を納得させるだけの力があった。私が舌で感じた漠然とした感覚を、わかりやすく巧みな表現で納得させてくれたのだ。
しかし、一歩下がって落ち着いて本質を考えてみれば、それらが正しいかどうかはまた別の話である。正しくなくとも「納得感」を与えてくれる存在が専門家だとしたら、究極的には正しさを備えていなくても、専門家は成り立つことになる。
そのような筋道で考えていけば、世間にあふれる専門家たちの自転車系インプレッションにおいて、最も必要とされているのは「ユーザーにどれだけ納得感を与えられるか」が必要になってくるのではないか。というのも、ドイツのTOUR誌のように測定器を使って数値で機材をあらわすような記事を書くことが不可能である以上、それ以外の道(納得感)に活路を見いだす必要が出てくる。
究極的にいえば専門家は正しいか間違っているかを問われていない。むしろ、専門家たちに「正しさの判断」をゆだねてはいけないのだ。だから専門家の意見は半分に聞いておけ、と言われることも十分なっとくできる。
まとめ:背中を押せる納得感を
最も幸せなことは、ここまで述べてきたような不都合な真実を当ブログの読者たちが理解したうえで、「ITがどう思ったのかを知りたい」と思ってもらえることだ。そしていそいそと当ブログを見に遊びに来てくれることだ。専門家でもなく単なるアマチュアの私の意見がつづられた文章の中にも、ひとりの読者に「何かしらの納得感」を生み出せたのならば、毎日毎日、記事をせっせと書いているかいもある。
どのように表現したら、読者たちに最も伝わるのかと、いつも思い悩んでいる。その上で納得感という付加価値を引き出すことに成功したのなら、御の字だ。表現することによって、たびたび辛辣な言葉も寄せられることも確かにある。しかし、それらがすべてではない。中には「それが言いたかった」と喜ばれることもある(っぽい)。
コーヒーを「マジうまい!」と表現するだけではなく「口に含んだ瞬間は少し苦みのある・・・」という納得感を、当ブログの記事でこれからどれだけ表現していけるのか。
あのバリスタのように、納得感を持ち合わせた専門家の域にはとうてい到達できそうにはないが、素人のアマチュアであることも一つの価値だと思う。ユーザーに寄り添ったアマチュア目線で語られる機材インプレッションであっても、読者の背中を少しでも押すことができるのならば、私はこれからも素人目線で書き続ける意義があると思うのだ。