「足るを知る。」
この言葉の意味は、自分の身の回りにある手の届く範囲のことで実は十分であり、幸せを過不足なく見出すことが重要だ、という意味だと解釈している。とはいえ、私はもっと、もっと、と欲を出していま以上のよい生活を、良い車を、良い家を、良い成果を、良い人生をと考えてしまっていた。
ところが、よく考えてみれば、生きていくだけであればいまの年収で十分だし、いまの生活でも十分だとおもう。そして、なにより健康であることこそ自体がありがたい。このように「足るを知る」という言葉は、全てを悟った仏様がたどり着く思想の終着点のようにも思えてくる。
しかし、増えても良いなと思えた経験があった。子供だ。
わたくしゴトで大変恐縮なのですが、5月27日に第二子が生まれました。実測重量2,854gとほぼカタログ重量通りに生まれてきた男の子だった。関西シクロクロスのレース観戦中に破水して生まれた娘、そして息子と一姫二太郎で、出来すぎた話だけど「足るを知る」という言葉はやはり違うよなぁ、と思った。増えても良いものもあるんだよ世の中には。と、思っていた。
しかし、そう思って理解はしていたものの、どうやら言葉の本当の意味を理解していなかったようだ。
「足るを知る」という言葉は中国古典『老子』上篇33章の中の、
知人者智、自知者明。
勝人者有力、自勝者強。
知足者富、強行者有志。
不失其所者、
死而不亡者壽。
「知足者富」の「足るを知る者は富む」が由来だとされている。
意味としては、
『知人者智、自知者明。』
他人を理解する者が知者であり、自分自身を理解する者こそ明知の人である。『勝人者有力、自勝者強。』
他人にうち勝つものは力があるだけだが、己にうち勝つものは真の強者だ。『知足者富』
既に持っているもので満足できる人(知足者)が本当に富裕な人であり、『強行者有志。』
自分自身を勉励べんれいして行動できる人が本当に志こころざしのある人である。『不失其所者、』
おのれにふさわしい生き方を失わないものは長続きし、『死而不亡者壽。』
死すその時まで道に随したがう志こころざしを失わない人が、
その天寿てんじゅ(天命)をまっとうできるのである。
2000年以上前、中国の思想家が残したこの言葉にはいったい何が託され、現代まで生き残ってきたのか。たった4つの漢字で構成された「知足者富」を少しづつ噛み砕くと、「すぐ近くにあるものこそが、ずっと前から1番明るく輝いている」という大枠が見えてくる。
たとえば、病気や怪我になるときまって、何不自由のない身体の有難みを感じるようになる。息ができること、歩けること、自転車に乗れること。当たり前に起こる感覚に、心を向けるようになる。
これらの経験を照らし合わせると、ぼんやりとしていた「知足者富」の真の意味に近づいていく。自分の「外」にあるものではなく、自分の「内」にあたりまえに備わっているものが、どれほどありがたく素晴らしいものか理解すべきだ。という解釈ができる。
決して、自分以外の「外」である収入、地位、名声、財産、家族といった「外」に存在している所有するモノに対する解釈ではない。
このように解釈していくと、京セラや第二電電(現・KDDI)の創業者である稲盛和夫さんの著書、『生き方』の一文を思い出す。
物があふれ、満ち足りた時代だからこそ、「足るを知る」心、またそれを感謝する心をもう一度見直す時期がきているように思います。(『生き方』(稲盛 和夫 著) より)
この言葉の意味を追求して行けば行くほど、「外側」と「内側」を別の話題として扱う必要があると思う。決して、「外側」の意味に対して用いられている言葉ではなく、「内側」に対する言葉、内側に目を向けよという言葉の意味だという結論へと収束してく。
絢爛豪華な家に住む必要もなく、最低限雨風を凌ぐだけでいい。着るもの、身につけるものに見栄を張る必要もない。私は、築30年の古い戸建ての賃貸明日から引っ越すのだけど、子供が自由に飛んだりはねたり騒ぐためには、新築でも持ち家でもタワマンでもなく、広ければ十分だ。
フロントのITエンジニアではなく、管理職になりわずかながらベースアップした。だからといって必ずしも生活水準を上げる必要はない。上がった分のお金は、投資信託で米国・新興国・TOPIX・REIT・ゴールドと全世界に分散投資だ。その資金が増えただけである。
今この瞬間に私が死んだとしても、私立に通いながら成人まで二人を養えはする。
とはいえ、これら誰しもが気にするであろう会社での成功や出世も本当に必要なのだろうか。私の場合は、大きな成功ではないが、今の会社に務められて仕事ができている事が成功なのではないか、と思ったりもする。わずかながらではあるが、私の幼稚な文章を何年も前から読んでくださる方や、いずれ無料で読めるのにお金を支払ってくださる方もいらっしゃる。
それも、一つの成功の形と呼べるのではないか。
自転車競技(趣味)も考えてみたい。常に結果を出し続けることが「成功」なのか。いつかは体力が落ちる。本業の仕事をしながら、毎朝4時台からトレーニングをして、休日は事故に合うこともなく無事に家族の元に「ただいま」と帰ってきて、また頑張ろうと毎日自転車を楽しく続けられていること自体が、「成功」だと思えてくる。
結果ではなく、それらの過程自体に価値を見いだせるようになった。と、考えるほうが腑に落ちるかもしれない。
そんなことを考えながら、帰りの電車の中で文章を書き溜めていた。最近ブログの更新ができないのはそのためだ。子供が生まれてから、仕事が増え家にいる時間やトレーニングの時間が本当に少なくなってしまった。ここ数週間、仕事からの帰宅が0時近い。
帰りみち、ふらりとコンビニに立ち寄って小腹を満たすプロテインバーを1本買う。レジに行くと、自分の親ほどの年配の店員さんと、会社の部下ぐらいの女性が元気よく対応してくれる。昨今、バイトテロだとか、コンビニの食材の添加物だとかそんな話が議論されるけど、こうやって誰かが、誰かの手によって遅くまで店を開け、働いてくださっている。
一方で、このような店員さんに対して横柄な態度や、「俺は客だ」という態度を取る人、はたまた宅急便の配達が遅いと土下座させるクソ野郎も世の中には一定数いる。汚い言葉はさておき、こうやって夜遅くにお店を開いて働いてくれているからこそ、私は簡単に食べ物を買える。
商品を渡されるとき、「ありがとうございました」と自分が先に口走ってしまった。無意識に自然に出てしまうことばは、心の底からだったと思う。
私の顔は、疲れて死んでいたと思うが。
プロテインバーを食べながら、LINEで妻に「今から帰る」と送る。夜遅いのになぜか既読になる、2人の子供の画像が送られてきて、ご飯があるよと連絡がくる。家につけば妻が起きていて、今日の子供達の出来事を話してくれる。最近ふと気づいたのだが(気づくのが遅いのだけど)、妻は会社を出たときの時間を逆算して、帰ってくるまでわざわざ起きてくれている(ようだった)。
「足るを知る」
という言葉のほんとうの意味は、自分自身の内側を見つめ直し、その存在に気づけということかもしれない。ただ、私は当初間違えて解釈していた。しかし、その勘違いがきっかけになって、自分自身に関わっているモノやサービス、はたまた家族といった外の存在自体を、改めて見つめ直すよいきっかけになった。
人間万事塞翁が馬のことばのとおり、間違いや失敗が次に繋がることも多い。逆に成功や名声が仇となり、転落していくこともある。恥ずかしい勘違いから生まれた様々な気づきや発見は、自分自身の内側、そして外側に存在していなかった「未」の部分と、「足された」から成り立つ「満たされた」結果だと、いまさらながら気付かされるのだ。