経済学で語られる「限界効用逓減の法則」は、自転車という趣味の世界において、残酷なほど正確に、そして物理的な質量を持って現れる。
真夏に、渇ききった喉に流し込む最初の1杯目のビール。その冷たさ、炭酸の刺激、ホップの香りは脳を直撃し、至高の幸福をもたらす。しかし、2杯目はどうだろうか。依然として美味ではあるが、最初の1杯ほどの衝撃はない。
3杯目、4杯目と重ねるにつれ、それは単なる液体となり、やがては満腹感や二日酔いという「負の効用」へと転じる。
自転車機材において、この「1杯目のビール」に相当するのは、ママチャリや安価なバイクから、しっかりとした設計思想に基づいて作られたスポーツバイクへ乗り換えた瞬間である。
ペダルを踏んだ力が逃げることなく推進力に変わるダイレクト感、意のままに操れるハンドリング。この初期段階における投資対効果は劇的であり、グラフの曲線は垂直に近い角度で上昇する。

しかし、我々がいま直面しているのは、その先にある「2杯目」「3杯目」の価格が異常なまでに高騰しているという現実だ。ハイエンドロードバイクの価格は1万ドル(約150万円)を常態的に超え、一部のモデルは自動車の価格すら凌駕する。
自転車業界に問いたいのは、その150万円の機材が、15万円の機材の「10倍」速いのか、あるいは「10倍」楽しいのか、という問いである。
答えは否だ。
物理法則は金銭で曲げることはできない。空気抵抗、重力、摩擦抵抗といった物理的障壁は、投資額に対して指数関数的に削減が困難になるからだ。
自転車産業における価格と性能の乖離

現代の機材において「性能の飽和点」はどこにあるのか。
我々は今、自転車史上で最も技術的に洗練された時代に生きていると同時に、最も「価値」の定義が曖昧になった時代に生きている。
ここ数年の市場を分析していくと、自転車機材の価格上昇は、原材料費(カーボン繊維、チタン、アルミ合金)の高騰だけでなく、ブランド価値の維持やサプライチェーンの複雑化、そして何より「限界効用の追求」にかかる膨大な研究開発コストに起因している。
プロライダーにとっては、40kmのレースで数秒を削り出す機材は、勝利への必須条件であり、プライスレスだ。しかし、週末のグループライドを楽しむ愛好家にとって、その数秒に数万円を支払うことの合理的意味はどこにあるのか。
グループセット、ホイール、フレームといった主要コンポーネントを、技術的に解剖し、そこに潜む「神話」と「真実」を峻別していく。そして、プロではない我々が、どこで財布の紐を締め、どこで「これこそが最高の1杯だ」とグラスを置くべきかのしきい値を探っていく。
コンポーネントの階層と「絶対性能」の幻影
自転車の心臓部とも言えるコンポーネント。
ここには厳格なヒエラルキーが存在し、価格差は残酷なほど鮮明である。しかし、エンジニアリングの観点からその中身をミクロン単位で比較すると、価格差ほどの「性能差」は存在しないという不都合な真実が浮かび上がってくる。
シマノにおける「三位一体」の崩壊
長らく自転車界の絶対的な基準となってきたシマノの「Dura-Ace」「Ultegra」「105」という三層構造。現在、これらはすべて12速化され、Di2を搭載するに至った。この技術的平準化は、限界効用逓減の法則を最も端的に示している事例である。
重量という名の最も高価な商品:Dura-Ace対Ultegra

カタログスペックを並べた時、Dura-Ace R9200とUltegra R8100の機能的な差を見つけることは、砂漠で一粒のダイヤモンドを探すようなものだ。変速スピード、サーボモーターのトルク、無線通信の遅延、電子回路の処理速度。これらは使用感として実質的に見分けがつかない。
内部の電子基板やモーターユニットの一部は共有されている可能性があり、ファームウェアレベルでの差別化もほぼ見られない。では、なぜDura-Ace(約52万円)はUltegra(約27万)の倍近い価格設定なのか。その答えの9割は「素材」と、それに伴う「減量」にある。
具体的な例として、カセットスプロケット(CS-R9200 vs CS-R8100)を見てみよう。 使用している材料の視点で見れば、この二つの製品は設計思想が異なる。
Dura-Ace (CS-R9200)は、軽量化への執念の結晶だ。ロー側の大きなギア板数枚にチタン合金を採用している。チタンは鋼鉄の約60%の比重でありながら高い強度を持つが、加工難易度が高く、材料コストも極めて高い。
さらに、それらを支えるスパイダーアームにはカーボン繊維強化プラスチック(CFRP)とアルミ合金を組み合わせている。結果、11-30Tで約223gという驚異的な軽さを実現している。
Ultegra (CS-R8100)は実用主義の極致である。ギア板はすべてニッケルメッキを施したスチール製である。スチールはチタンに比べて重いが、耐摩耗性においては優れている。重量は約291g(11-30T)だ。
| コンポーネント特性 | Dura-Ace (R9200) | Ultegra (R8100) | 105 (R7100) | |
| カセット重量 (11-34T) | ~253g | ~345g | ~361g | チタン合金の使用有無が支配的要因。回転中心部のため慣性モーメントへの影響は小。 |
| クランクセット構造 | 中空鍛造アルミ (極薄) | 中空鍛造アルミ | 中空アルミ | 接着技術と鍛造技術の差。DAは極限まで肉厚を削ぎ落としている。 |
| チェーンリング素材 | アルミ | アルミ | アルミ | DAはアウターリングも中空構造(Hollowglide)で剛性と軽さを両立。 |
| グループセット総重量 | ~2438g | ~2691g | ~2950g | 差分は約500g。水入りボトル1本分に満たない。 |
| 実勢価格 (USD) | 52万円 | 27万円 | 21万円 | 1gの軽量化コストが指数関数的に増大する領域。 |

この表が示す事実は冷徹である。
UltegraからDura-Aceへのアップグレードにおいて、ユーザーは約250gの軽量化のために約25万円を追加投資することになる。つまり、1グラムを削るために約1,000円を支払っている計算になる。
物理的に言えば、カセットスプロケットやディレイラーといった「回転しない(あるいは回転半径が小さい)」部品の軽量化が、走行性能(登坂速度や加速)に与える影響は極めて限定的だ。
体重65kgのライダーが10%の勾配を登る際、250gの差がもたらすタイム差は、1時間の登坂で数秒程度に過ぎない。
105 Di2の破壊的革新と「十分」の定義

2022年に登場したShimano 105 Di2(R7100シリーズ)は、ロードバイク界における「1杯目のビール」の定義を完全に書き換えた。かつて「105はレース入門用」と言われていたが、Di2化された現行モデルは、変速性能においてUltegraと遜色ない。

GCNなどが行ったブラインドテストの結果は衝撃的だ。熟練したライダーであっても、変速時の音、レバーのクリック感、変速完了までのタイムラグにおいて、Dura-Aceと105 Di2の決定的な違いを「体感」として言い当てることは困難だった。
特に、目隠しをされた状態では、多くのライダーがプラシーボ効果(「高い機材を使っている」という思い込み)に依存して評価を下していたことが露呈している。
ただし、指摘すべき「意図的な差別化」も存在する。105のSTIレバー(ブレーキ/変速レバー)には、UltegraやDura-Aceにある「サテライトスイッチ用ポート」や、ブラケットトップの「隠しボタン」が省略されている。
また、フロントディレイラーのモーターサイズが大きく、変速スピードがコンマ数秒遅いという測定データもある。しかし、この「コンマ数秒」は、ツール・ド・フランスのゴールスプリントでなければ、ライダーのストレスになるレベルではない。
結論として、機能面における「1杯目のビール」は、間違いなく105 Di2で飲み干されている。それ以上のグレードは、機能の向上ではなく、「質感」「所有欲」「極限の軽量化」という、より形而上学的な価値への対価となっているのだ。
SRAM:AXSエコシステム
シマノのライバルであるSRAMもまた、同様の階層構造を持つ。Red、Force、Rivalという3つのグレードだ。しかし、SRAMのアプローチはシマノと少し異なり、各グレード間の互換性を極限まで高めている。
さらに踏み込むと、MTB用やグラベル用のコンポーネントも動かせる対応の幅広さがある。
Red E1とForce/Rivalの機能的等価性


SRAMの無線電動変速システム「AXS」は、最上位のRedからエントリーのRivalまで、同じ通信プロトコルとモーター制御ロジックを使用している。つまり、スマホアプリで設定できる機能や、シフト信号が送られてからディレイラーが動くまでの反応速度に、グレード間の差は存在しない。
ここでも決定的な差は重量と素材だ。最新のRed AXS(E1)は、レバー形状を刷新し、ブレーキのピストン位置を変更することで、驚異的な「軽さ」と「引きの軽さ」を実現している。
RIVAL eTap AXS HRD(総重量約2,783g)に対し、RED eTap AXS HRD(約2,235g)は548gも軽い。これはシマノのグレード間重量差よりも大きい。
プラスチックとカーボンの境界線

SRAMのグレード差は「触感」に顕著に現れる。RedとForceのレバーブレードはカーボン製であり、指先に触れた時の温度や硬質感が独特の高級感を醸し出す。一方、Rivalはアルミや樹脂を多用しており、冬場に冷たかったり、強く握り込んだ時にわずかなたわみを感じたりすることがある。
この「たわみ」や「触感」こそが、ライダーが感じる「品質」の正体だ。機能的には変速して止まるだけだが、人間は無意識のうちにレバーの剛性からシステム全体の信頼性を判断している。
Rival AXSは機能的な「1杯目」を満たしているが、Force以上のグレードが提供する「官能的なフィードバック」は、2杯目のビールとしての味わい深さを持っていると言える。
カンパニョーロ:機能美とラグジュアリー
イタリアの老舗カンパニョーロは、効率性とは異なる次元で戦っている。最新の「Super Record Wireless」は、\984,720という価格設定でありながら、その仕上げの美しさ、カーボンの織り目の芸術性において他社を圧倒する。
カンパニョーロを選ぶことは、「性能対費用の計算を放棄」することを意味する。
それは「機械式時計」を選ぶ心理に近い。クオーツ時計(シマノやSRAM)の方が正確で安価であっても、複雑な機構と歴史的背景を持つ機械式時計(カンパニョーロ)にロマンを感じる層は確実に存在する。
ここにおいて、限界効用の法則は適用されない。なぜなら、彼らが求めているのは「効用」ではなく「審美」だからだ。
消耗品における「F1マシンのパラドックス」
通常、工業製品は高価なものほど耐久性が高い(長持ちする)と期待される。しかし、ロードバイクのハイエンド駆動系においては、この常識が逆転する「F1マシンのパラドックス」が発生する。
チタン製とスチール製の摩耗

前述の通り、Dura-Aceのカセットスプロケットはチタンを使用している。チタンは軽量だが、表面硬度は熱処理されたスチールに劣る場合がある。特に高トルクがかかる場面での摩耗は早く、「Dura-Aceのカセットは決戦用、練習で使うのはちょっと・・・。」というのが共通認識だ。
対して、Ultegraや105のスチール製カセットは、重量はあるものの耐久性は極めて高い。数千キロ走っても歯飛びしにくく、安定した変速性能を維持する。ランニングコストの観点からは、Ultegraグレードが「性能と寿命のスイートスポット」にあると言える。
チェーンの摩擦抵抗と寿命の逆相関

チェーンに関しても同様のことが言える。Zero Friction Cyclingなどの独立機関によるテストデータによると、Dura-Aceのチェーン(CN-HG901)は、SIL-TECというフッ素加工がローラーとピンに施されており、摩擦抵抗を極限まで低減している(Ultegra比で約0.5ワット削減)。
しかし、中空ピンを採用しているため、物理的な破断強度や伸びに対する耐性は、中実ピンのUltegraや105と同等か、あるいは過酷な条件下では劣る可能性すらある。
「0.5ワットの削減」に倍の価格を払う価値があるのは、ツールドフランスでトップを争う選手だけかもしれない。一般ライダーにとって、チェーンのグレードを上げるよりも、こまめな清掃と注油(あるいはホットワクシング)を行う方が、はるかに大きなワット数削減と寿命延長効果を得られる。
ここでも「1杯目のビール」は、適切なメンテナンスという行為そのものにある。

空気抵抗との対話 – 見えない壁への投資

自転車が平地を高速で巡航する際、ライダーが戦う相手の80%以上は「空気」である。残りの抵抗(転がり抵抗、駆動抵抗)はごくわずかだ。この見えない壁を打破するために、メーカーはCFD(数値流体力学)解析と風洞実験に莫大な投資を行っている。
エアロフレームの「7ワット」の重みと実走環境
2025年モデルのハイエンドエアロロード(例:Canyon Aeroad CFR, Cervelo S5, Van Rysel RCR-F Pro)は、前世代機と比較して「45km/h走行時に約5~10ワットの抵抗削減」を謳うことが多い。数値だけ見れば大きな進歩に思えるが、ここには統計のトリックがある。
風洞実験のレイノルズ数と路上乱流の乖離

風洞実験(ウィンドトンネル)は、制御された環境下で、一定の方向からきれいな風(層流)を当てて行われる。しかし、実際の道路上では、風は常に変化し、ライダーの動きや前走者の影響で乱気流が発生している。
CyclingnewsやTour Magazinの独立テストによると、最新のスーパーバイク(200万円クラス)と、ミドルグレードのエアロロード(80万円クラス)の間の空力性能差は、フレーム単体で見れば極めて僅差だ。
例えば、私が愛用しているSpecialized S-Works Tarmac SL8と、その下位グレードや他社のミドルグレードとの差は数ワット程度に収まることが多い。
45km/hの呪縛とホビーライダーの現実

さらに重要なのは速度域だ。空気抵抗は速度の二乗に比例して増大する。メーカーが提示する「45km/hでの削減効果」は、時速30km/hで巡航する平均的なホビーライダーにとっては、その半分以下の恩恵しか生まない。
「1杯目のビール」にあたる空力効果は、フレームの形状そのもの(カムテール形状)や、ケーブルのフル内装化といった、現代のミドルグレード以上のバイクであれば標準装備されている機能ですでに達成されている。
残酷な話だが、私も所有しているS-Works、LAB71、Dogma F、AEREOAD CFRといったトップグレードが提供するのは、プロが時速60km/hでスプリントする際の、ほんの数センチの差を生むためのマージンであり、我々にとっては「速そうな見た目」というプラシーボ効果が主たる効用となる。
あと、「S-WORKS」というロゴの意味も大きい。
ホイール:回転する質量の魔術
ホイールは、フレーム以上に走行感に直結するパーツである。なぜなら、ホイールは「移動する質量」であると同時に「回転する質量」であり、その慣性モーメントが加速や登坂に直接影響するからだ。
リムハイトとヨー角
市場には60万円を超えるハイエンドホイール(ENVE SES, Zipp 353 NSW, Princeton CarbonWorksなど)と、20~30万円前後のミドルレンジホイール(Zipp 303 S, Shimano Ultegra C50, Hunt, Nepestなど)が混在している。
風洞実験データを詳細に分析すると、リムハイト(40mm~60mm)とリム幅(内幅21mm以上)が適切に設計されていれば、ブランドによる空力性能の差は驚くほど小さいことがわかる。
特定のヨー角(斜めからの風)においては、ハイエンドホイールが優れた「セーリング効果(風を推力に変える効果)」を発揮することもあるが、全方位的な平均値で見れば、価格差ほどの性能差はない。


ハブベアリングのセラミック化とプラシーボ効果

ハイエンドホイールのセールスポイントである「セラミックベアリング」。鋼球よりも真円度が高く、硬いセラミック球を使用することで抵抗を減らすという理屈だ。
「理屈」、そう理屈だ。
根本的な話をすると、自転車のハブの回転数(時速40km/hで約300~400rpm)では、シール(防水パッキン)やグリスの粘度による抵抗の方が支配的であり、ベアリング素材そのものの差がワット数に与える影響は測定誤差レベル(0.5ワット未満)であることが多い。
「最もおろかなアップグレード」なのがセラミックベアリングだ。

ホイールにおける「限界効用のしきい値」は明確だ。「信頼できるハブを備えた、リムハイト40-50mm、内幅21mm以上のカーボンホイール(重量1,400g~1,500g)」を手に入れた瞬間、ライダーは最大の効用を得る。
これらは現在、20万円程度で入手可能だ。それ以上の投資は、数グラムの軽量化と、ハブのラチェット音が奏でる「高級感」への対価となる。
タイヤ:最高の費用対効果

機材の中で唯一、数千円の投資でプロと同じ性能が手に入るのがタイヤだ。Continental GP5000 S TRのようなトップグレードのタイヤは、転がり抵抗係数(Crr)が極めて低く、安価なトレーニングタイヤと比較して、前後で10ワット以上の抵抗削減を実現する。
これは「2杯目のビール」として最も推奨される投資だ。Dura-Aceへのコンポ載せ替えよりも、ハイエンドタイヤへの交換の方が、はるかに安価で、かつ体感できる速さをもたらす。ここにはまだ、限界効用逓減の法則を打ち破る余地が残されている。

ヴェブレン財としての自転車 – 「高騰」の正体
物理的な性能差が縮小しているにもかかわらず、なぜハイエンド機材の価格は高騰し続け、需要が衰えないのか。ここで、エンジニアリング的な視点を離れ、経済学の「ヴェブレン効果」を引き合いにして分析する。
“価格”そのものが価値

経済学の基本原則(需要の法則)では、価格が上がれば需要は下がる。しかし、ソースタイン・ヴェブレンが提唱した「ヴェブレン財」は、この法則に逆らう。価格が高いこと自体がステータスとなり、逆に需要を喚起するという特異な財である。
Colnago C68、Pinarello Dogma F、Specialized S-Works、Campagnolo Super Record。これらは単なる移動手段やスポーツ用具の枠を超え、所有者の社会的地位や、サイクリングという趣味へのコミットメントの深さ、あるいは経済的成功を周囲に誇示するための「顕示的消費」の対象となっている。
200万円クラスのバイクを購入する層にとって、その価格は「高い」というネガティブな要素ではなく、「選ばれた者のみが許される入場料」というポジティブな要素として機能する。
しばしばSNSでメルセデス・マイバッハや、ラ・フェラーリ、豪華なクルーザーなどを見かける機会がある。これらは、「選ばれた者」というイメージを遠回しに誇示できる。自己顕示欲を満たせる格好の手段になる。高価なロードバイクも同じだ。
高いからこそ欲しい。そして、安くなって誰でも買えるようになったら、その価値は失われる。
これがハイエンドバイク市場を支える心理的構造だ。
顕示的消費とアイデンティティの形成

サイクリストは、機材を通じて自己表現を行う。グループライドにおいて、自分のバイクが「プロスペック」であることは、無言のうちにカースト上位であることを示す記号となる。
「脚(フィジカル)が伴っていないのに高いバイクに乗るのは恥ずかしい」という議論もしばしばなされるが 、実際には多くのホビーライダーが、自身のFTPとは無関係に最高級機材を購入している。
これは、ゴルフのアマチュアがプロと同じクラブを使うのと同様だ。機材は「憧れのプロ選手への同一化」を助ける媒体であり、その体験価値に対して対価が支払われている。開発者ならば「性能に見合わない」と断じることができるが、マーケターとしては「夢に見合う価格」と評価せざるを得ない。
そして、私たちが直接見て触れる機会を提供してくれるのは、マーケター達の巧みなプロモーションだ。
「プロ仕様」への同化願望とサンクコスト効果
さらに、「これだけの金額を投資したのだから、速くなっているはずだ(速くならなければならない)」という心理的バイアス(サンクコスト効果への正当化)も働く。
高価な機材を使うことで、練習へのモチベーションが上がり、結果として速くなるという好循環が生まれることもある。この場合、機材は物理的な加速装置ではなく、心理的な加速装置として機能していると言える。
人間工学と心理学の狭間 – 「プラシーボ」という加速装置
機材の物理的な性能差が微細になればなるほど、人間の感覚器官と脳が作り出す「主観的な性能」が重要性を増してくる。
「気持ちよさ」をワットに変換する

Dura-Aceの変速レバーの「カチッ」という精密なクリック感、Chris Kingのハブが奏でる「アングリービー(怒れる蜂)」のような独特のラチェット音、ハイモジュラスカーボンの乾いた走行音。これらは物理的な速さ(ワット数削減)には直接寄与しないかもしれない。
しかし、これらはライダーのドーパミンレベルを上昇させる。
スポーツ心理学の観点からは、「自分は最高の機材を使っている」という全能感(自己効力感)が、ライダーのペダリング出力を無意識に引き上げ、苦痛の限界であるRPE(自覚的運動強度)をわずかに押し広げることが示唆されている。
プラシーボ効果は、生理学的な反応を引き起こす「実在する力」なのだ。
GCNの実験でも、古いDura-Aceよりも新しい105の方が客観的性能が高いにもかかわらず、ライダーはDura-Aceの「名前」や「仕上げの美しさ」に特別な感情を抱き、それを「性能が良い」と錯覚する傾向があることが示されている。
アップグレード中毒

サイクリングにおける「アップグレード中毒」は、一種の行動嗜癖として説明できる。新しいパーツを購入し、装着し、最初のライドに出かけるときの高揚感。これは脳内の報酬系を強く刺激する。
しかし、この快感は「快楽のトレッドミル」と呼ばれる現象により、すぐに薄れてしまう。
どれほど大きな幸福(大金、昇給など)を得ても、人はすぐにその状況に慣れ、また以前の平均的な幸福度に戻ってしまう心理的な傾向におちいる。ランニングマシン(トレッドミル)のように、頑張って走り続けてもその場に留まり、満足というゴールに到達できない様子を比喩的に表現している。
すなわち、人間は新しい刺激にすぐに順応してしまう。その結果、失われた快感を求めて、次はセラミックプーリー、その次は〇NIベアリングと、より高価で、より効果の薄いパーツへと手を伸ばす無限ループに陥る。
「1杯目のビール」の美味しさを忘れられず、味もわからなくなっているのに2杯目、3杯目を注文し続ける酔っ払いのように、我々は費用対効果の極めて低い「最後の数杯」を飲み続けているのかもしれない。
トレーニング効果と機材投資の損益分岐点

冷静な視点に戻ろう。もしあなたの目的が「速くなること」だけであれば、機材への追加投資よりも、トレーニングへの投資の方が圧倒的に効率が良い。
FTPが250Wのライダーが、機材で10ワット削減するために5,000円を使うのと、構造化されたトレーニング(コーチングやZwiftなど)に5000円を使ってFTPを260Wに上げるのとでは、後者の方が持続的で本質的な速さを手に入れられる。
機材によるタイム短縮は「買った瞬間」に手に入るが、それ以上の成長はない。トレーニングによる身体能力の向上は、時間はかかるが、限界効用逓減のカーブは機材よりも緩やかだ。特に私のような40代以降のライダーでも、適切なトレーニングを行えばフィジカルの向上は可能である。
まとめ – 我々はどこで「飲む」のを止めるべきか

物理法則、そして経済心理学の分析を経て、自転車機材における現時点での「しきい値」をここに定義したい。
究極の「1杯目のビール」:105 Di2 / Rival AXS
自転車機材における「最高の1杯目のビール」――つまり、投資した金額に対して最大の感動と性能が得られるスイートスポットは、間違いなくShimano 105 Di2(またはSRAM Rival AXS)を搭載した、ミドルグレードのカーボンフレームのアッセンブルである。
価格帯で言えば完成車で約50万~75万円のレンジだ。この領域で、現代のロードバイクに求められる以下の要素は100%満たされる。
- 12速電動変速の正確無比なシフティング(ワイヤー伸びや調整のストレスからの解放)
- 油圧ディスクブレーキの絶対的な制動力
- 空力と快適性を両立したフレーム設計
- 内装ケーブルによるクリーンな外観
これ以上の投資は、対数グラフのように急激に平坦化する「性能向上曲線」に対し、指数関数的に上昇する「コスト曲線」を登る行為となる。ここが、エンジニアリングとしての「上がり」である。
「2杯目」としての賢明な投資戦略:ホイールとタイヤ
もし予算に余裕があり、「2杯目」を美味しく飲みたいのであれば、それはDura-Aceへのコンポ載せ替えではない。順序としては以下の通りである。
- チューブ:TPUやラテックスチューブ。ハイエンドバイクとミドルグレードの空力性能差を縮めるほどの差が得られる。
- タイヤ: Continental GP5000 S TRなどのトップグレードタイヤ。ワット単価が最も安い。
- パワーメーター: 自分の出力を可視化し、トレーニング効率を上げる(約5~10万円)。
- ホイール: 重量が1,500gを切る、信頼性の高いミドルグレードカーボンホイール(約20万円)。走りの軽快さが劇的に変わる。
これらを揃えたバイクは、実質的な走行性能において、200万円のスーパーバイクと互角に渡り合えるポテンシャルを持つ。
では、スーパーバイクは無意味か?
150万円を超えるDura-Ace/Red AXS搭載のスーパーバイク、S-Works、LAB 71、Dogma、CANYON CFR系は無意味なのか? 決してそうではない。それは「味」ではなく「体験」と「ロマン」を買う行為だからだ。
事実として、私はこれらのハイエンドバイクを何台も購入してきた。
F1マシンと同じ素材と開発手法、ツール・ド・フランスの勝者と同じ機材を操るという体験は、物理的な速さを超えた形而上学的な価値を持つ。その精密な加工、Dogma Fのチタンやぐらやカーボンの質感と美しき塗装、そして背後にあるエンジニアリングの極致への敬意。
それらを感じ取れる感性と財力を持つ者(私には残念ながら無いが)にとって、3杯目、4杯目のビールは、また別の種類の「美酒」となり得る。
結論はこうだ。
「性能のしきい値」はShimano Ultegra / 105 Di2にある。しかし、「情熱のしきい値」は青天井である。
あなたがレースで勝つこと、あるいは自己ベストを更新することを純粋な目的とするなら、105 Di2のバイクに最高のタイヤとパワーメーター、そしてコーチングへの投資が最適解だ。
しかし、あなたが自転車という機械そのものを愛し、その工芸品としての美しさや、人類の技術の到達点に触れることに喜びを感じるのであれば、Dura-Aceの輝きやS-Worksのロゴに支払う対価は、決して無駄ではない。
それは、限界効用逓減の法則を超えた先にある、エンジニアたちが限界に挑んだ証を所有するという、現代における数少ない冒険の一つなのだから。

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