乗れる、という当たり前の事

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「この脚うまそうだな、、、」と考える犬。

終わりを見据えて走る。最近は六時間と決めて走っていた。箕面の高山公民館で止まると非常に時間をロスする。正直なところ、練習する時間をロスしたくない。確かに誰かと会うことや駄弁る事は楽しい。

でもそれらはカフェでもできるし、移動区間、もがき終わった河川敷を流す途中でもできる。自転車に何を求めるのかは人それぞれだが、選手として走るならば今はそういう時期じゃない。

サクサク練習をして帰宅する。身体に負荷をかける。

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やっと歩けるように

自宅療養中のサイクリストの元へ。熊野前の五月、美山から何ヶ月か経った。長かったが、あれから時間が経ちようやく先週歩けるようになった。毎週土日に練習をなるべく早く終わらせて、様子を見に行っている。

なるべく早く終わらせて、昼飯食って洗車して帰宅する。このルーティンにも慣れた。ただ家が集合場所から遠いので、移動時間がかかる。

遠いので午後まで練習が食い込むと後ろにずれ込む。ただ、タイムマネジメントは本人のやりよう次第なので問題はない。ダラダラ走るよりも、短時間で密度の濃い方が良い。時間に余裕があると、人間はそこに収まるように無駄使いをする。

この期間、二本の足で歩けることや、自転車に乗れることは当たり前ではないのだなと考えさせられた。当たり前の様に乗り、当たり前の様に移動する。我々が当たり前に、思っていることは実は奇跡としか言いようがない。

ただ、それらが当たり前だと思っていると何も思わなくなる。当たり前の様に走ってくれる人がいて、当たり前の様に自転車に没頭できる環境がある。そして皆仕事をしながら、家族や子供がいる中で走っている。

「当たり前」の反意語は「ありがとう」だという。

いままでは、あまり感謝とかそういうのは明確には感じなかった。まぁ、普通に生きているとそんなもんだ。完治したらまた走れる。今しばらくの辛抱だ。

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