プログラムの処理に「ファーストイン・ファーストアウト(FIFO)」という動作原理がある。先に入ってきたものが、先に出ていくという動作だ。日本語の俗な慣用表現をするならば、
「行列待ち」や「ところてん方式」である。先に詰めたものが先に、あとに詰めたものは後から出てくる。
処理の動作原理も同様に、先に入ったものを先に処理する。後から割り込んで先に来ることはできない。どのような場合でも、後に入ってきたものは後から処理をするのだ。最近様々な書籍を読み漁り、様々な経験をした。その中でも興味深かったのは「すぐやる」ことで得られる大きな効果だ。
どうしても人間は物事を先延ばしにしてしまう。結局はやらなくてはいけないことを、先延ばしにしてしまう。なぜだろうか。厳密には突き詰めていけば、性格やどうしても行動に移せないという事もあるだろう。しかし、それらに漏れず私も同じように「何事も後回しにしてしまう」タイプの人間である。
しかし、どうやら「後回しにしてしまう」という本当の本質を知ってしまってから、すこしその行動は変わっていった。どうやらやりたくないことを後回しにすることで、本来「やりたいこと」も不本意に同時に後回しになってしまうのだ。
後回しで処理待ちになる
勉強する前に部屋を無性に部屋を片付けたくなったことは無いだろうか。これは心理学的に解明されていて「セルフハンディキャッピング(Self-handicapping)」と呼ばれている。この行動は文字の通り、自らの手で、自身の目標を妨害する行動をとることである。この不可思議な行動の裏の心理は「自己防衛」のため、もう少し辛辣な事を言えば、「言い訳」を作るために行われる。
心理学上はそのように解釈できるのだが、もしも仮に「片付けるものが無いほどキレイ」な場合はどうなるのだろうか。もしかしたらスマホを見たり、ネットサーフィンをしたりと本来「勉強する」という目標からかけ離れた行動を取る人も多いだろう。
ただ、私は思うのだ。もしかしたら、片付けも、スマホも、ネットも「行列待ち」しているのではないかと。到達すべき目標はなんだって良い。「勉強する」「練習する」だっていい。年末が近づけば「年賀状を書く」だっていいし、お店であれば「棚卸し」をするだって良いだろう。
そんな中で「本来やりたいこと」に取り掛かれずなぜか他のことに忙殺されているのなら、その忙殺する根源は自分自身にとって「行列待ち」しているタスクである可能性が高い。そのタスクが終わらなければ、処理しなければ「本来やりたいこと」の順番が回ってこないのではないだろうか。
冒頭に記載した、「ファーストイン・ファーストアウト」の話にもあるように、先に「本来処理されるべき」課題をこなさないと、本来自分自身が行いたい内容の処理の順番が回ってこない。結果、「あれもやりたい、これもやりたい」と思い悩むことの本質は、「行列待ちをしているやりたくないタスクが溜まっている」だけにすぎない。
しかし、「なぜこんなにもやらなきゃいけないことが溜まっているんだ!」と嘆くのは自分自身の処理自体に問題がある。やりたい処理「TVを見る」「スマホを見る」「ゲームをする」「遊びに行く」というタスクは行列の中のある一部だ。ただ、その中に先に処理されるべきである「洗濯をする」「食器を洗う」「部屋掃除をする」といったタスクがまだ行列待ちをしている。
それらが溜まっているうちは、速やかにやりたいことへと移行することが できない。
断捨離
昨今、「ミニマリスト」なる言葉が流行し「物を持たない」ということがひとつのはやりだ。私も以前一人暮らしをしている時に極限までものを減らして生活していた(今とは逆だが)。ミニマリストと近しい行動形態に「断捨離」という考え方がある。身の回りにあふれる不要なものを減らさないと、新しいものが入ってこないという考え方だ。
この断捨離は私も体験していて、わりと本当に身の回りを整理するとモノが入ってくる。すこしオカルトめいた事を書いているが、世の中は不思議なもので「減らすと」「増える」のである。この断捨離も見方を変えると、プログラムの処理「ファーストイン・ファーストアウト(FIFO)」という動作原理に近いことがわかる。
不要なものは「先に入ってきた処理」であると定義すると、その処理が終了(捨てる)まで後で待ち構えている(実際には手に入るまで何かはわからない)処理はいつまで経っても自分の所には来ない。先出し処理を溜め込んでおける処理の量は人によって異なる。数多くの処理をこなせるだけのバッファーがある人もいれば、ない人も居る。
ただ、どれほどバッファーがあったとしても、どんどん処理が来てしまえば次第に処理も溜まっていく。次第に処理を先延ばしにしてしまったり、要らない物が身の回りに溢れかえってしまえば「本当にやりたいこと」も処理待ちの一部になる。
試しに、先延ばしにしていること、判断を迷っていることをさっさと片付けてみる。そうすると意外と面白いことにどんどん新しい情報や、体験が「降ってくる」のだ。物だってそうだ。本を売ったり、機材を売ったりするとその「隙間」に新しい「何か」がふとしたきっかけで入ってくる。
何かを得るということは、何かを失うということである。
すこしオカルトめいた話かもしれないが、実際に私が年末に体験した話である。もしかしたら、会社の人事もそうかもしれない。ポストが空かないと、そのポストに入るべき人が入れないではないか。ようするに「出世の行列待ち」である。物事には順番がある。多くは「割り込み制御」がきかない。
もしも「スマホ」や「TV」に気を取られているのならば、それらは「行列待ち」の最中なのかもしれない。行列に「本当にやりたいこと」が割り込んできたとしてもなかなか入れてもらえないだろう。実際には本来やりたいことなのだが、自分自身が処理しなくてはならない事が終わっていない。
人生とは、行列待ちの連続なのかもしれない。どれだけ処理すべき行列が並んでいるのかはだれもわからない。ただし、皆が皆いつか寿命という終りが来る。それまでにどれほど行列待ちを減らし、後に待つ素晴らしい行列たちを目にすることができるかは、一人ひとりそれぞれがいつやるかにかかっている。
1つ物事をなんでも良いから進めてみる。そしたら、また次の新しい物事が舞い込んでくる。
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