「がんばりました。」
レースの結果を聞くとこんな言葉が返ってくる時がある。皆が皆同じように頑張って何かしらの結果を出している。結果は良かったり悪かったりするが、頑張ったことと結果は切り離して考えるべきだ。努力することが目的になると、自分の中で努力したか、そうでなかったかが満足度に反映される。
だから「努力したけど、結果が出なかった」というのはそもそもお門違いな話だ。努力と結果を結びつけて考える必要性はそもそもなく、別の話として分けて考える必要がある。結果は努力に関係なく発生し、努力に対して比例してよくはならない。
努力と結果を結びつけてしまう思考の罠の理由は、自分の努力を肯定したいという想いからだろう。努力に対して何らかの見返りを求めるとき、結果が一番都合のいい見えやすいリターンだ。どこかで結果を出したいと思っているし、努力したのだから結果が付いてくる、という淡い期待もある。
ただ、この思考はとても都合のいい話で、自分の努力は自分の中のものさしでしか存在せず、結果とは無関係にある。そのことを理解せず、「自分の中にしかない努力」と「試合の結果」という全く関係性のない事象を掛けあわせてしまうと、
「努力したけど、結果が出なかった」
という、どうしょうもない考え方に陥ってしまう。結果と努力は無関係だ。辛い練習やインターバルの回数、走行距離、継続することとも結果は無関係だ。だとすると、何が結果を決めているんだろう。僕らは決められたコース、決められた気象条件、決められた機材、決められたメンバー、決められたルール、決められたフィジカルの中で勝負する。
複数の異なる複雑な要素が綿密に絡み合い、勝敗が決める。この決められた世界の中に次は「判断」と「決断」という思考の部分が絡んでくる。「今は追わない」「あいつはチェックする」「脚を貯める」という決められた条件をどのように「扱うか」を自分で決定する。
決められた条件をどのように使っていくかで勝敗はさらに複雑に別れる。さらにもうひとつの要素は、自分以外の誰かの「判断」と「決断」だ。昨年の全日本選手権のように、「序盤から逃げは決まらないだろう」と思っていた強豪選手たちは、その「判断」と「決断」が外れ悲惨なリザルトしか得られなかった。
なんの要素が、どのように絡みあうのかは誰にも予想できない。こうなってくると、「努力したけど結果が出なかった」という考え方が、いかに狭められた要素のみで結果を期待してしまっているかということがよくわかる。思考のバイアスの罠は、自分自身に起こること、やってきたことほど強くなる。
努力して、結果が出なくても全く落ち込む必要はない。だから自転車をやめたり、練習に身が入らなくなる必要もない。結果を決定する様々な要素の一つに、ほんの僅かな(無視してもいいような)自分の中にしかない努力という存在があるだけだ。
努力してるけど、結果が出ず、折れそうになっている(折れた)人がいたとしたら、そもそも双方に関係性はないのだから、思考バイアスの罠にはまらずにまた前に進みはじめたらいい。
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